すず同様に、声優の世界に飛び込んだのんの戸惑い
──一人ひとりのキャラクターがちゃんと生きた人間になっているんですね。そんな人々に囲まれ、主人公のすずは少女から大人へと成長していく。すず役を演じた のん さんには実にいいタイミングでのオファーになった。
そうですね。彼女はこれまではカメラの前で動いたり、ポーズを作ったり、表情を作ることで演技をしてきた。つまりビジュアル的な演技に頼ることができたんです。でも、アニメーションは声だけで表現しなくてはいけないので、彼女は演技の半分が使えないわけです。今回のアフレコは声を録音するだけでなく、小声でしゃべる声の質感まで拾うことができる超指向性のガンマイクで、口元を狙いました。でも、のんちゃんは体を動かしながらなら自然に台詞をしゃべれるだろうという意気込みで、Tシャツにジーンズ姿でスタジオに現われ、「今日は動きやすい格好で来ました!」と笑顔でいうわけです。でも、マイクの前から左右に動いちゃダメと言われて、「えっ、じゃあ上下はどうですか?」「ジャンプはどうですか?」と食い下がられましたね(笑)。
──新人声優らしい、いかにもなエピソードですね。
そこからが、彼女の闘いでした。じゃあ、どうすればいいのか。少なくとも、すずさんの動きを真似て演じるわけにはいかない。また、台本をそのまま読めば芝居になるとも、僕は思っていません。そこから先がある。それは何でしょうねと。「あなたは動けないけど、画面の中のすずさんは動いている。なら、すずさんの動きをひとつずつ読み取ってそこに息や声をのせて表現していったら」と話し、すると彼女はすずさんがうつむくところで「ぐ、ぐ、ぐっ……」と声を漏らしたんですね。ある場面では、台本には「あっ」とひと言しか書いてなかったけど、画面の中のすずさんは小きざみに3回表情を変えていて「なるほど、『あっ、あっ、あっ』なんですね」と。そこから彼女は画面の中のすずさんの動きを懸命に見て、自分なりの表現を考えるようになったんです。
──嫁入りしたすずと同様に、声優業という慣れない世界に放り込まれながら、しっかり着地点を見つけ出したということですね。
もうひとつ、彼女には乗り越える壁がありました。彼女の台詞だけ後から録音したんですが、その時点で他の登場人物の演技は非常に高レベルのものが録音されてたんです。彼女は他の人の台詞が入ったCDを聴きながら、どうすれば自分がそこに入り込み、うまく噛み合うことができるのかをしっかりと自分で練習を重ねました。彼女だけ“抜き録り”だったにもかかわらず、そう意識させないものになっていました。完成した作品を観た他の俳優たちは「私たちはちゃんとすずさんと会話できていた」と言っていましたが、“抜き録り”でもちゃんと会話として成立していた。晴美と会話するシーンでは、晴美のニュアンスに合わせて一緒にいるように感じさせた。他の俳優さんたちと声の調子を合わせ、噛み合ってみせたわけです。それは、のんちゃんが声優として本領を発揮できたということでしょうね。とても自然に演じているので、映画を観ていてもなかなか気が付かないかもしれません。
愛読書と片渕作品に流れるテーマ性
──otoCotoではクリエイターのみなさんに、愛読書や読書スタイルについてもお聞きしています。映画『この世界の片隅に』を楽しむために、原作本以外にもお薦めの図書があれば教えてください。
第二次世界大戦中のイギリスが舞台ですが、米国のSF作家コニー・ウィルスの小説に『ブラックアウト』と『オール・クリア』があるんです。タイムマシンが発明された未来の話で、そこで誰がタイムマシンを利用しているかというと歴史学者たちなんですね。研究者たちがタイムマシンで第二次世界大戦中に空襲に遭っているロンドンへ行き、市民の生活の中に交じって歴史観察するというものです。大戦中の出来事や風俗をすべて暗記して当時の人の間で普通に生活できるレベルになってから研究者たちはその時代に送り込まれるわけですが、この小説を読んでいると自分たちのやっていることに似ているなと感じました。ある時代のことを徹底的に調べ上げ、その時代の中に迷い込んだような感覚に陥るところがすごく似ている。『この世界の片隅に』をご覧になって、「この映画はどうやって作ったんだろう」とそのプロセスに興味を持たれた方は、『ブラックアウト』とその続編『オール・クリア』も読んでみてください。大戦時に送り込まれた研究者たちはタイムマシンの故障で未来に戻れなくなり、暗記していた時期も過ぎて何が起きるか分からず、その時代の中に溶け込みながら対処せざるを得ないという、予測できない展開が待っています。面白いですよ(笑)。
──片渕監督にとってアニメーション制作は時間旅行に旅立つようなものなんですね。学生時代から愛読している本などもあれば、ぜひ教えてください。
じゃあ、もうひとつタイムマシンもので(笑)。ロバート・A・ハインラインの『愛に時間を』は思い出に残っている一冊です。4000年以上も生きて、あらゆることを経験した人類最長老の男が最後に望んだのは、タイムマシンを使って母親が生きていた時代へ帰ることだったいう物語。未来社会から第一次世界大戦当時に戻り、そこで若かった頃の自分の母親に4000年ぶりに再会するんです。大学生の頃に文庫本にまだなる前の単行本で読みました。当時は早川書房のSF小説が好きで片っ端から読んでいましたが、単純な未来志向とは違い、『愛に時間を』は過去にさかのぼる面白さに気づかせてくれた作品でもあったように思いますね。
──片渕監督の作品は、脚本デビュー作『名探偵ホームズ』から『名犬ラッシー』、さらに劇場アニメ『アリーテ姫』『マイマイ新子と千年の魔法』と、主人公が大切にしているものを懸命に守ろうとする、もしくは失われる運命にあるものに対して想いを馳せる物語が多いように思います。これは学生時代に読んでいた本の影響でしょうか?
どうでしょう。本の影響もあるかもしれませんが、むしろ自分自身の体験が大きく影響しているようですね。大学生の頃からアニメ業界で仕事をするようになったわけですが、「アニメーションでこういう作品を創りたい」と強く主張しても、いろいろな事情で自分の思うようには進まないわけです。僕が脚本で参加した『名探偵ホームズ』は途中で中断され、監督だった宮崎駿さんも含めて仕事から切り離されてしまったんです。2番目に関わった『NEMO/ネモ』もやはり途中で取り上げられてしまった。その後も仕事を最後までまっとうできないことがあまりにも続いたんです。そういう状況で自分が大切にしているものを守っていくには、自分自身の心持ちが大事になってくるわけです。どんな状況でも、もともとのモチベーション、動機を常に思い返し、大事に思い続けることでしか守ることができないんです。
──片渕監督の作品に共通して流れるテーマは、片渕監督が自分自身に投げ掛けているテーマでもあるんですね。
アニメーションの仕事を始めたときは意識していませんでしたが、結果的にそうなってしまっていますね(笑)。今回の『この世界の片隅に』のすずさんには日常生活の中でたくさんの愛するものがあったわけですが、原作者のこうのさんは容赦なくすずさんたちを残酷な目に遭わせてしまう。大事にしていたものをことごとく破壊して消してしまう。僕自身、映画化する作業の中で「作り手はこんな形で非情にならなくてはいけないのか」と思い知らされました。でも、だからこそ、すずさんたちは、自分たちの心の中にあるものだけは懸命に守り抜こうとする。すずさんたちの想いが『この世界の片隅に』を観た方たちに伝われば、こんなにうれしいことはありませんね。
取材・文/長野辰次
撮影/名児耶洋
片渕須直(かたぶち・すなお)
1960年大阪府生まれ。日大芸術学部映画学科在籍中より、宮崎駿監督の『名探偵ホームズ』(84年)に脚本家として参加。1989年に公開された『NEMO/ニモ』の製作段階では、高畑勲監督版の演出助手、近藤喜文監督版の演出補佐、大塚康生監督版の共同監督を経験している。宮崎駿監督の『魔女の宅急便』(89年)では演出補を務めた。大友克洋監督らが参加したオムニバス映画『MEMORIES』(95年)では『大砲の街』の技術設計を担当。テレビシリーズ『名犬ラッシー』(96年)で監督デビューを果たす。構想8年、製作3年を費やした『アリーテ姫』(01年)で劇場監督デビュー。『マイマイ新子と千年の魔法』(09年)は口コミで評判が広まり、1年以上に及ぶロングラン上映となった。NHK復興支援ソング「花は咲く」のアニメ版(キャラクターデザイン:こうの史代)の監督も務めている。日常生活を丁寧に描く作風に定評がある一方、犯罪アクション『BLACK LAGOON』(06年)の監督・脚本・シリーズ構成や、ゲーム『ACE COMBAT 04』『ACE COMBAT 05』なども手掛けている。
『この世界の片隅に』
映画の冒頭、スクリーンいっぱいに現在は広島市平和記念公園となっている広島市中島本町の街並みが、色鮮やかなアニメーションとして再現される。多感な少女時代を広島で過ごした主人公すず(声:のん)の物語に観客はいっきに引き込まれる。おっとりした性格のすずはファンタジーの世界と現実の世界が共存する子どもの心をまだ失っておらず、そんなすずと共に観客は戦時下の日常生活というこれまで体験したことのない非日常の世界を味わうことになる。 すずのことを気に入って嫁に迎えた周作(声:細谷佳正)は優しいが、絵を描くこと以外は器用ではないすずは嫁入りした北條家で戸惑うことばかり。そんな中、周作の姪っ子・晴美(声:稲葉菜月)と仲良くなり、余った布切れで小物入れを縫ったりして親交を深めていく。原作者・こうの史代のお気に入りだったテレビアニメ『名犬ラッシー』で監督デビューを果たした片渕監督らしく、日常生活の細やかな描き方が実に年季が入っている。昭和20年に広島を襲う惨劇を知っている我々は「このままずっと日常生活が続けばいいのに」と願わざるを得ない。 『魔女の宅急便』の演出補を務め、ファンタジー映画『アリーテ姫』を手掛けたことから“ポスト宮崎駿”と称されたこともある片渕監督だが、前作『マイマイ新子と千年の魔法』以降、徹底した時代考証ぶりに磨きがかかり、“失われた世界”への想いをより強く感じさせる独自の作風となっている。二度三度と見直す度に、新しい発見がみつかる名作がここに誕生した。
原作:こうの史代
監督・脚本:片渕須直
音楽:コトリンゴ
出演:のん、細谷佳正、稲葉菜月、尾身美詞、小野大輔、藩めぐみ、岩井七世、牛山茂、新谷真弓、澁谷天外
配給:東京テアトル 11月12日(土)より全国公開
(c)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
公式サイト
http://konosekai.jp
『この世界の片隅に』全3巻 こうの史代/双葉社
広島市の海沿いの街・江波で暮らす18歳の女の子・すずが軍港のある呉市に嫁ぎ、日々の生活の中で巻き起こす小事件の数々を綴った戦時下の日常マンガ。絵を描くことが得意だが、花嫁修業はまったくしていなかったすずが、持ち前のほんわかした性格で嫁ぎ先の北條家の人々に溶け込んでいく様子がユーモアたっぷりに描かれているが、そんな愛すべき生活が米軍のB29による空襲や広島への原爆投下によって木っ端みじんにされることになる。広島出身のこうのが戦時中の庶民の暮らしを詳細に再現しており、劇場版アニメでは登場シーンが限られていた白木リンをめぐるエピソードなども少なくないので、戦時下を生きるすずとすずが愛した人々との日常生活をひとコマひとコマじっくりと味わいたい。
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『夕凪の街 桜の国』こうの史代/双葉社
2004年度文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞を受賞したこうの史代の代表作。二部構成となっており、『夕凪の街』は終戦から10年が経った広島を舞台に、結婚適齢期を迎えた女性・皆実が戦争で亡くなった人たちに対するサバイバーズ・ギルト、そして原爆症に苦しむ姿が描かれる。『桜の国』は戦争の記憶が過去のものとなった現代の東京が舞台。戦争を知らずに育った被曝二世の女の子・七波が、亡き母の故郷・広島を訪ねることで、両親の青春時代に思いを馳せることになる。2007年に佐々部清監督によって実写映画化され、麻生久美子(皆実役)と田中麗奈(七波役)の演技はどちらも高く評価された。
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『ブラックアウト』『オール・クリア』
著/コニー・ウィルス 訳/大森望 早川書房
ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞を受賞した歴史観察SFシリーズ。前編『ブラックアウト』では、オックスフォード大学の史学生たちが2060年から第二次世界大戦時のイギリスへタイムトラベルして灯火管制(ブラックアウト)下の市民の暮らしぶりを現地調査することになる。主人公たちは事前に史実を調べてから旅立つが、史実とは異なる不測の事態に遭遇し、窮地に追い込まれていく。後編『オール・クリア』では2060年に戻ることができなくなった主人公たちが協力し合い、ロンドン大空襲が警報解除(オール・クリア)されるまで懸命にサバイブする。空襲下のロンドン市民の暮らしぶりや心情が詳細に再現されており、主人公たちと共にタイムトラベラー感覚が楽しめる。
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『ブラックアウト』
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『オール・クリア』
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『愛に時間を』全3巻
ロバート・A・ハインライン 訳:矢野徹/早川書房
『夏への扉』『宇宙の戦士』などで知られるSF界の巨匠ハインラインが1973年に発表した長編小説。4000年以上生き、死ぬこと以外のすべてを経験した男ラザルス・ロングが主人公。自分がまだ未体験のことを探すラザルフはタイムマシンに乗って、自分が幼少期を過ごした20世紀初頭の米国カンザス州へと向かう。そこでラザルフは若き日の母親モーリンと再会することに。だが、第一次世界大戦の足音が米国にも迫り、ラザルフは戦争に巻き込まれていく。
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