黒澤監督から受け継いだもの
池ノ辺 黒澤監督のところにいらっしゃったのは1993年の『まあだだよ』までですか。
小泉 いや、現場にいたのはそうですけど、亡くなるまでずっと一緒にいました。黒澤さんは現場を離れてからも脚本を書いているんです。一つは『海は見ていた』(2002 / 熊井啓監督)、そしてもう一つが『雨あがる』(2000 / 小泉堯史監督)です。その『雨あがる』の脚本を京都で書いている時に倒れて怪我をされて、その後の3年間は病床でした。だから1998年までですね、ずっと側に居ました。100歳までやるとご本人は言っていましたから、なんとかと思ったんですけどね。
池ノ辺 本当に近くに居られたんですね。黒澤監督はどういう方でしたか。
小泉 それはもう素晴らしい方という以外ないですね。僕は正直言って、映画を好きというよりは、黒澤さんに惹かれてこの仕事を続けてきただけなんです。ですから若い頃からそんなにたくさん映画を観てきたわけではないんですよ。今でもあまり劇場にも行きません。賞を獲ることにもあまり興味はないですし。ただただ「黒澤さん命」ですから。
池ノ辺 黒澤さんが亡くなった後は自分がその思いを引き継いでいこうと思ったんですか。
小泉 いやいや、もう映画はやめようと思っていました。田舎の親父にも「足を洗って帰ってこい」と言われましたし(笑)。醤油を造っていて、僕もそろそろいいかなという感じでもあったんです。
池ノ辺 帰ろうかなと思っていたのに、なぜ帰らなかったんですか。
小泉 黒澤さんのお別れの会が、横浜の黒澤フィルムスタジオであって、これが3万5千人くらい集まったんです。この会の最後に黒澤フィルムのスタッフだけ残りました。そのとき代表の(黒澤)久雄さんが、みんなを前にして「『雨あがる』を小泉に撮らせるからみんな協力してくれ」と。これはもう引き受けるしかなかったんですよ。久雄さんも、最後まで黒澤さんのもとにいた僕のことをずいぶん心配してくれたようで、小泉に撮らせようと思ってくれたんでしょうね。それで黒澤組のみんなで一緒にできるんだったらと引き受けたんです。もちろんこれは大変だと思いましたけど、久雄さんの気持ちもよくわかった。それにみんなで一緒にやれば黒澤さんも喜んでくれるかなという思いもありました。
池ノ辺 撮影に入ってからはどうでしたか。
小泉 撮影自体は、正直言って苦労でもなんでもなかったです。黒澤さんの助監督をやっていた時の方がよほど大変でしたから(笑)。とにかく天才の思考をイメージしながら準備するわけです。助監督、特にそのチーフはそこにあるカメラは全部見ておけ、と言われて、全部見て、アングルを確認して撮影に臨むわけです。確認を怠って撮影で失敗して1日中止になったなんて、えらいことですからね。それと同時に、黒澤さんが何を考えているのかということをすぐに的確に掴み取らないといけない。いろいろ細かく説明する人ではないですし、非常に勘を大事にする人でしたから。だから「あいつは勘が悪いね」なんて言われたらもうアウトですよ。黒澤さんに「小泉!」と呼ばれただけで何をやろうとしているのかを自分で掴まなければいけない。本当はそれを言われる前に気づいてできていれば一番いいんでしょうけれど、なかなかそうはいかなかったですね。それでもとにかくそうやって一生懸命やってきたことで、身についてきたものもあったんだと思います。
池ノ辺 では撮影は順調だったんですね。
小泉 自分のカメラのポジションも迷いませんでした。今までやってきて身についたものでやればいいなと思っているのでね。自分がOKを出して、文句を言われなければいいだろうという感じでしたから、苦労はなかった。周りのスタッフも、カメラも美術も照明も皆さんそれこそ『羅生門』(1950)あたりから黒澤さんについてやってきた人たちですよ。監督補の野上(照代)さんも含めて、その名スタッフの皆さんが何も言わないでそのままスムーズに仕事が進んでいるんだから、これでいいんだろうなと。
池ノ辺 そうやって出来上がったわけですね。その1本を撮り終わって故郷に帰ろうとは思わなかった?
小泉 それは思わなかったですね。
池ノ辺 じゃあ、この道で行こうと思ったわけですね。
小泉 黒澤さんのそばにいた時から脚本は書いていたんです。「シナリオはずっと書いていないとダメだよ」と言われて。それで書いて持っていくと、黒澤さんは丁寧に読んでアドバイスをくれました。ですから脚本を書くことは好きでした。ただ、『雨上がる』もそうでしたけれど、その後も続けてこられたというのは、プロデューサーの原正人さんの力が大きいです。「次にやりたいものがあったら言えよ、バックアップするから」といつも言ってくれました。それで僕が「これ」と言って次に出したのが『阿弥陀堂だより』(2002)です。こんな地味な話にお金が集まるものだろうかと思いましたけど、僕は自分がやりたいものができればよくて、できなければそれでいい、くらいに考えていたら、原さんが岩波ホールの高野悦子さんに話をつけてくれたんです。岩波ホールで公開するということで、あの仕事は始まったんですよ。
『明日への遺言』(2007)もそうですね。原さんが資金を集めてくれて、主演を藤田まことさんで行きたいと言ったら、一緒にお願いしに行ってくれました。そういう意味では、映画監督としての自分は、きっかけは久雄さんがつくってくれて、後は原さんに全部育ててもらった、そういう感じです。
池ノ辺 実は『博士の愛した数式』(2005)の時に弊社で予告編を作らせてもらったんですが、その時に小泉監督に叱られたんです。予告編のラストに本編の最後に出るカットを入れたら「お客様が最後に観るカットを使わなければ宣伝ができないのか」と言われて‥‥。
小泉 そうでしたか、すみません(笑)。
池ノ辺 いえ、本当にその通りだと思って、別のカットに差し替えました。その際は、勉強させていただきました。
小泉 昔は予告編というのは助監督の仕事だったんですが、黒澤さんはやらせてくれなかったですね。こんな楽しみを人に任せてなるものかと、全部自分で絵コンテ描いて、音楽も決めて、編集するのも楽しんでいました。僕は、いいなと思いながら見ていましたよ(笑)。