「市子」を存在させないようにそこに映すという難問
池ノ辺 残念ながら私は舞台は見ていないんですが、舞台と映画は、演出する側としてはどのように違いましたか。
戸田 僕は大学では演劇専攻で、脚本を書いたり演出したり、役者として演じたこともあります。演劇を学びつつ、映画が好きで自主映画を撮ったりもしていました。ですから、映画と演劇はどう違うのか、何が向いていて何が向いていないのかということを日頃から考えていたんです。
池ノ辺 どんな違いがありましたか。
戸田 演劇の場合はやはり、俳優の肉体と言葉というものが、すごく大切なファクターになります。もちろん時間も空間も大事ですが、特に肉体と言葉だと思っていました。ですから「市子」の舞台の脚本はそのあたりをすごく大事に作り上げています。一方、映像というのは何を映すか、何が映っているか、ということが全てです。ですからその視点で言葉を解体して、脚本を改稿する必要がありました。
池ノ辺 先ほど、映像化するにあたってのアイデア、というお話がありましたが。
戸田 舞台の「市子」は、一応市子役の役者はいるのですが、そこに実在していないかのような、抽象化された存在として表現されていました。舞台の場合、そうしたリアリズムではないものでも比較的受け入れられやすい。
ところが映画の場合は、それはSFとかファンタジーにしなければ、そこに映ったものの実存性というものがすごく明確に出てしまうと思うんです。市子を、存在しないように撮らなければいけないけれど、市子を映したい、映さなければ原作がそこに表現されない。最初に映像化を断った理由はそこにありました。
池ノ辺 そこからどういう方法に至ったんでしょうか。
戸田 映像として、その人物を映さずに存在させるというのは、『桐島、部活やめるってよ』(2012)で使われた手法で二番煎じになってしまうので使えないと思っていたんですが、たとえば黒澤さんの『羅生門』(1950)のように、いろいろな人がそれぞれの視点で見て証言を出していくという方法ならどうだろうか。一人の人物も、人それぞれの立場から多面的に見ると、同じ人物のはずなのに全然違う人物に見えてきて、どれが本当かわからないという。そういう視点で物語を描いていけば、市子を映し続けても、原作と同じようなニュアンスの作品にできるんじゃないかなと思ったんです。
池ノ辺 そういう意味で、映画の『市子』というタイトルは、本当にピッタリで、すごくいいと思いました。
戸田 ありがとうございます。これはテーマから考えてもこのタイトルだと、結構初めの頃から決めていました。ホラー映画みたいだと言われたりもしたんですが(笑)。
池ノ辺 恋人の長谷川さんが、失踪した市子を探しにいきます。その中でさまざまな人に会ってそれぞれの見た市子について知っていく。
戸田 彼は市子を探しにいくけれど、見つけられない、掴めないということです。
池ノ辺 長谷川役の若葉竜也さんは、今回の役について何か言われていましたか。
戸田 僕が聞いたのは、釜山国際映画祭の取材の時ですが、脚本を読んで、自分じゃなく他の人がこの長谷川という役をやっているのは想像したくないと思ったと、そう言ってくれました。
池ノ辺 脚本を読んだ時から、これは自分の役だと思ったんですね。花さんが素晴らしい役者だというのはわかっていたんですが、若葉さんはじめ、みなさん素晴らしい役者さんたちでした。作品としての構成はもちろんすごいと思いましたが、それに応える役者さんたちもすごかったです。
戸田 それは本当に恵まれました。