Aug 15, 2023 interview

プロデューサー・松橋真三が語る “紫夏の物語”であり“魂の物語”である『キングダム 運命の炎』

A A
SHARE

映画プロデューサーになるまでの、まるで映画のようなストーリー

池ノ辺 松橋さんは青森のご出身なんですよね。大学は早稲田大学ということですが、いつ頃から映画のプロデューサーになりたいと思ったんですか。

松橋 小さい頃から映画の仕事をしたいとは思っていたんです。映画が大好きでしたから。でもその頃はプロデューサーという仕事は知らなかったので、小学校の卒業アルバムには映画監督になりたいと書いていました。

ただ、そういう仕事にどうやったら就けるのかは全くわからなかった。それで、東京の大学に行って普通に会社勤めするのかなと。入った学部が法学部だったので、頑張って弁護士の資格を取ろうかなとも考えてました。そんな頃に、岩井俊二さんの『Love Letter』(1995)を観て、感銘をうけたんです。日本映画でこんなのを作る人がいるんだ、こういうのが作れるんだったらこの業界に行ってみたいと思いまして、弁護士を目指すのはその日にやめました(笑)。

池ノ辺 それで映画業界に入ろうと思ったんですね。

松橋 急遽自分の進路を変更しました。ただ、当時は東宝さんも東映さんも映画を作っていなくて、どこに行けばいいのかと‥‥。

池ノ辺 ちょうど洋画がすごく流行っていた時ですね。

松橋 そうです。その頃、WOWOWが民放の有料衛星放送局として開局したばかりで、ショートムービーみたいなものを含めると、実は日本で一番作品を作っていると言ってました。それで、そこに行けば映画を作れるのかなと思って入社しました。

池ノ辺 入社してすぐに映画に関わるようになったんですか。

松橋 配属されたのが営業職で、映画とは畑違いの仕事でした。ようやく映画部に異動になったのが、1999年頃です。そこに配属されて半年経った頃、突然、会社に深作欣二監督から電話があったんです。

池ノ辺 それはびっくりしますね(笑)。

松橋 「映画作りたいんだけど、どこもお金を出してくれないんだよね」と言われて、「じゃあ、一度お話を伺いましょう」となったんです。その時の電話で、『バトル・ロワイアル』を作りたいとおっしゃってたんです。

実はその頃、太田出版さんから「バトル・ロワイアル」という過激な作品があって、大きい賞を獲れると思ったら審査員に嫌われてこんな残酷なのはダメだと言われてしまったんだ、とゲラをもらっていたところでした。それで読んでみたら面白かったんですよ。これを深作監督が映画化するのは面白いと思って、会うことになり、当日、杖をついた深作監督が深作健太さんとWOWOWにやってきました。

それで、WOWOWでどれくらい出せるかわかりませんが、私がお金を集めるんで一緒に頑張りましょうという話をしたんです。それまで営業部にいてお金の集め方というのを学んでいたことが功を奏しました。それが私の映画プロデューサーとしての第1作目となりました。

池ノ辺 すごい。その話自体がすでに映画みたいです(笑)。そうやっていろんな流れやいろんな人との出会いがあって、センサーが磨かれて、神がかり的なこともあって、形になっていったんですね。