――凄い経験ですよね。冒頭、空き家に入って行くシーンがありますよね。埃をかぶった部屋の中が、すぐに逃げ出した状況になっていました。この映画に出演するにあたり、どこか見学されたりしたのですか。
本当にバリケードが前に張られていて、入ることが出来ない場所が沢山ありました。とにかく異様でした。見慣れたチェーン店に草が生い茂ったまま残っていたり、通り沿いに残った家もひっそりとしていて。僕の台詞で「放射線量が高かったら自分の家ではなくなるのか」という言葉があるんです。今は東京に住んでいるけれど、やっぱり僕は地元の大阪が大好きで、地元 (実家) に帰ると“帰って来た”と思うし、ホッとしたりもします。でも福島の帰還困難区域の人たちは、そこに家があるのに帰ることが出来ない。自分の家に入ったら警察官が来て怒られるんです。その感覚ってもの凄くきついと思うんです。そういう話を聞くとやっぱり苦しかったですし、胸が痛いけれど、共有していかないといけないと凄く思います。

――撮影が始まる前に福島に行かれたそうですが、前田さんご自身が「行きたい」と言われたのですか。
そうです。その地で撮影を行うと知ってはいても、台本を読んで準備をしている期間中に、“行って、見て、損はない”と思ったんです。今回、美術スタッフとして参加している美術アーティストの山本伸樹さんが、僕が「行く」と言ったら案内をしてくださったんです。車に一緒に乗って降りられるところでは降りて、放射線量が高くて降りられない場所は車の中から眺めて、「ここではこういうことがあった」とひとつひとつ説明してくれました。景色を見て実際に肌で感じるという体験は、僕にとって大きかったです。
――21年間この仕事を続けられて、何か見出したものはありますか。
準備をすることはもちろんですが、結局、現場に行った時にその準備をして来たものをどれだけ大事にせずに、いられるかだと思っています。現場に入って監督に「ここはこうこう」と言われた時に、「この役はこうなんで」と言いたくなるのを抑えるというか。役者がそこにこだわり過ぎると、役が凄く小さくなってしまう気がするんです。自分が思い描いたキャラクターに囚われると、結果的に現場で自分を苦しめることを経験したんです。人間には色々な側面があるし、その役を入れた状態ならば、他の人の意見を取り入れても、役の外側にはみ出ることはないだろうと思うんです。怖いけれど信じて捨てる勇気みたいなものをちょっと持つ。拒否せずにやってみて、やっぱり違和感があったら、また話し合えばいいって感じです。