“痛み”をエレガントに描くことで、幅広い層に響く感動作に
そのうえで、先にちらりと述べた“痛み”について語ってゆきたい。藤井作品は、絶望から目を背けずに真摯に描くことで血の通った人間ドラマを構築してきた。単なるお涙頂戴ものにはしなかった『余命10年』然り、コロナ禍で傷ついた人々の心を代弁した『名もなき一篇・アンナ』然り。『ヴィレッジ』はその究極で、個人の絶望を表現として最大化・最深化してスクリーンに叩きつけることで、あれだけの濃度に到達できたのだと感じている。未だ多くのファンを抱える『青の帰り道』もシリアスな痛みとセットの青春物語だし、『デイアンドナイト』にも心痛な描写は多い。人間描写を大切にする以上、こうした“重さ”は付いて回るものだが、『パレード』を経て、本作で「一つ抜けた」ネクストステージに着地した感がある。
前作『パレード』は、「喪失」をテーマにした死者たちの物語であり、死によって隔たれる哀しみや凄惨ないじめシーンが登場する。が、そこだけでは終わらない。パレード(祝祭)というタイトルが示すように、たとえ暮らす場所が変わっても命は終わらないという“希望”が示され、死者の世界でも生者の世界でも「映画」というメディアの存在・映画制作という連帯がそれぞれの世界で生きる人々を孤立から救っていく(故人が生きた証が映画に記録される側面も)。 そして『青春18×2』では「再生」がテーマに据えられ、傷ついた人々を周囲の人間が、さらには作品自体が抱擁するような“優しさ”の温度が、より高くなっている。これまでが当事者の痛みをダイレクトに見せつつ観客に共振させるようなつくりだったとすれば、『青春18×2』ではそこを抑えたエレガントな魅せ方に変化しているのだ。それは表現として軟化したというわけではなく、より引いた目線で――例えるなら保護者のような、慈しみ守る存在として――等身大性は保ちながら、周辺視を行う“ゆとり”が感じられるのだ。
本作は藤井監督のおじいさまの出身地に合わせて、舞台を原作の台北から台南に変更したという。また藤井監督は撮影時にジミーと同じ36歳で、自身のパーソナリティを投影した部分は多いそう。ただ、そうしたエピソードを踏まえたうえで、本編を観ても私的で内にこもった作品にはまるでなっていない。むしろそうした要素を作品のクオリティ向上のピースとして客観的に処理できるような“抜け感”が、いまの藤井監督には漂っている。