Jan 26, 2024 column

『哀れなるものたち』 傷口から始まる物語、すべてを体験せよと彼女は言った

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最高にデラックスで最高にスペクタクルな映画。ヨルゴス・ランティモス監督とエマ・ストーンのコラボレーション『哀れなるものたち』は、両者の代表作として語り継がれていくはずだ。 アラスター・グレイ原作の本作は、ヨルゴス・ランティモスのフィルモグラフィーでもっともオーディエンスに開かれた作品であり最高傑作だ。圧倒的なプロダクションデザイン、演技、演出、カメラワーク。ここにはあらゆる情熱がほとんど狂気のレベルで注ぎ込まれている。

私見ではエマ・ストーンの出演作にハズレはない。製作会社「フルート・ツリー」を立ち上げ、最近ではジェシー・アイゼンバーグの初監督作品『僕らの世界が交わるまで』のプロデュースも担ったエマ・ストーン。『バービー』を製作した「ラッキー・チャップ エンターテインメント」のマーゴット・ロビーと共に、現在のアメリカ映画界におけるエマ・ストーンの行動から目が離せない。

フランケンガール・ゴーズ・トゥ・イエロー・ブリック・ロード

巨大な幼児、あるいは幼児の脳を埋め込まれたフランケンガール。ヨルゴス・ランティモスの『哀れなるものたち』は、絢爛なドレスを着た女性が飛び降り自殺を図ろうとするシーンから始まる。不吉なまでに眩しい輝きを放つ青いドレス。渦を巻くように荒れる波。橋の欄干から落ちた女性の遺体は、継ぎはぎだらけの痛ましい顔面を持つマッドサイエンティスト、通称“ゴッド”ことゴッドウィン・バクスター(ウィリアム・デフォー)によって拾われる。ゴッドウィンは女性のお腹の中にいた赤ん坊の脳と遺体の脳を取り換え、彼女の蘇生に成功する。20代の大人の身体を持った幼児ベラ・バクスター(エマ・ストーン)の誕生である。この映画はある女性の人生の終わりから始まるが、同時に新たな生命の誕生から始まっている。生きる機会、尊厳を奪われた母親の人生は、ベラによって生き直される。ベラの体には母親の生きた人生、傷が、タトゥーのように刻まれている。

鍵盤に両足を乗せピアノを弾く幼少期ベラのファーストシーン。幼少期のベラが言葉ではなく“音”で始まるのは象徴的だ。ゴッドウィンによって創造されたベラは、まだまともに言葉を話すことができない。この映画には大人の身体を持つベラの幼少期から大人になっていく過程が描かれている。ゴッドウィンの顔面と同じくアンティークの継ぎはぎで出来たような屋敷。ベラは言葉未満の言葉を放ちながら無邪気に物を破壊していく。ベラはまだ外の世界を知らない。世の中の秩序を知らない。ゴッドウィンによる教育は“監禁”と似ているが、ことはそう単純なものではない。ゴッドウィンには、ベラを自分の理想の女性として作り上げていくような身勝手な意思はないのだ。ゴッドウィンはベラの“父親”として彼女に寄り添い続ける。そこには惜しみないやさしさがあるが、当然矛盾もある。脳を入れ替えて人間を蘇生させるという実験そのものが、そもそも身勝手極まりない行為だからだ。自分の身体を使って実験をしてきたゴッドウィン。ゴッドウィンの継ぎはぎだらけの顔面は実験=傷の履歴、歴史なのだろう。それはベラの身体に刻まれた母親の傷と相似関係にある。そしてゴッドウィンは矛盾の中を生きていることに自覚的に見える。ベラを人々の欲望から遠ざけるために屋敷に閉じ込めることは、同時にゴッドウィンの支配下に留めることでもある。しかし支配はゴッドウィンの望むことではない。ここにヨルゴス・ランティモスのフィルモグラフィーを特徴づける“監禁”というテーマが、不穏な透かし絵のように浮かび上がってくる。

外界との接触を禁じられた子供たち、家族を描いた『籠の中の乙女』(2009)や、独身のままでいると動物に変えられてしまう『ロブスター』(2015)のホテル。ヨルゴス・ランティモスは“監禁”をテーマにした、アイロニカルとも黙示録的とも一概に形容できないユニークな作品を撮ってきた。ベラが世界を旅する『哀れなるものたち』は、ヨルゴス・ランティモスのどの映画よりも世界に、そして多くの観客に開かれている。むしろ例外的とも思えるほど楽しく、開放的だ。屋敷における破壊行為や、膣の中に果物を入れて遊ぶベラは、どこまでも無邪気さに溢れている(助手のマックスの戸惑いのリアクションを細かく捉えるズームイン/アウトを織り交ぜたカメラワークが実に素晴らしい!)。

ベラが自由主義を纏った男性ダンカン(マーク・ラファロ)と旅に出るまでの幼少期は、まさしくヨルゴス・ランティモスの“監禁”のテーマを踏襲している。出発前のファースト・エピソードがモノクロで撮られ、ベラが世界に色彩を発見していくというプロセスは、『オズの魔法使』(1939)と同じ構図である。いわばベラはエメラルドタウンに向かう黄色いレンガ路(イエロー・ブリック・ロード)を発見する。しかし屋敷を飛び出したベラは、“世界の良識”という名の新たな“監禁”を体験することになる。自分の欲望に正直なベラは、世界にとって悪夢、モンスターに他ならない。ダンカンはベラの無秩序さに惹かれ、外の世界の快楽を彼女に教えようとする。しかし新時代の自由人を気取っているダンカンは、結局のところ旧来の家父長的なコントロール・フリークであることを隠せない。無軌道だがスポンジのように物事を学んでいくベラの成長速度は、ダンカンにとって次第に手に負えないものになっていく。思い返せばダンカンに対するベラの優位には、初めから伏線があった。何度も快楽を望むベラと、何度も続けてセックスはできないと語るダンカン(ベラの“熱烈ジャンプ”という言葉が面白い)。男性なるものの敗北へ向けたプロローグ。素晴らしきベラの自由!そして、ああ、なんて憐れなダンカン!