Nov 23, 2023 column

洗練さと野蛮さがせめぎ合う、北野武による俳優主義の映画『首』

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 死は動かない

『首』は斬首された正体不明の死体が無防備に河に横たわっているシーンから始まる。『アウトレイジ』シリーズにおける暴力団事務所や非常階段に横たわる銃殺された死体の数々が、まるで血が乾くのを待っているような死体だったことを思い出す。そして『アウトレイジ』の黒い車や黒のスーツが全体のトーンを決めていたように、『首』の冒頭シーンは映画のトーンを決めている。北野武の映画において死体は静物画のように描かれる。あくまで“物体”としての死体。それ以上でもそれ以下でもない。死後の世界があるとはとても思えない。それらは一瞬にして生命を終わらせる斬首、介錯という行為のあっけなさによく似ている。生命を終わらせた者が無情なくらい“物体”となる。バッティングセンターで速球を顔面に食らいながら死んで“物体”となった、『アウトレイジ・ビヨンド』の石原(加瀬亮)の姿を思い出してもいいだろう。

「あんまり死ぬのを怖がるとな、死にたくなっちゃうんだよ」(『ソナチネ』/1993)

北野武の映画において死は常に隣り合わせであり、死に引き寄せられる引力のようなものが働いているといえる。その傾向は本作にも常に濃厚に滲んでいる。登場人物がまったく悪気のない動きをして凶器が誰かの顔の前をかすめ、「あぶねーな」と注意されるシーンは北野武の映画で何度も繰り返されてきたシーンだ。いつどこから矢が飛んでくるか分からないのと同じくらい、いつどこで誰に裏切られるか分からない、ただならぬ空気が映画の最後まで続いていく。

その中心に豊臣秀吉に仕えたとされる噺屋、曽呂利新左衛門がいる。この根本的に信用のできない曽呂利というキャラクターを演じた木村祐一の演技が素晴らしい。遊牧民のように自由であり、どこにでも馴染めるような物腰で権力の側に擦り寄っていく曽呂利。同時に曽呂利というキャラクターは、映画作家北野武が劇映画デビュー作『その男、凶暴につき』(1989)を“歩行”の映画として始めたことを思い出させてくれる本作のキーパーソンの一人でもある。“歩行”の映画としての北野武作品は、ロードムービー『菊次郎の夏』(1999)を経て、西島秀俊と菅野美穂による『Dolls ドールズ』(2002)で最高到達点を迎える(西島秀俊の演技の変遷を比べる上でも興味深い傑作だ)。曽呂利には『アウトレイジ』シリーズで暴力団の権力争いを引っ掻き回していた悪徳刑事片岡(小日向文世)ほどあからさまな権力への執着はない。しかし心中がまったく読めない、且ついつの間にかどこかに消えてしまいそうな薄情さがあるという点で片岡よりも厄介な存在であり、しかし映画のキャラクターとしては極めて面白い。

曽呂利だけでなく、『首』にはこれまでの北野武映画のキャラクターのペルソナのような登場人物が複数存在する。中村獅童が演じる農民、難波茂助というキャラクターは『座頭市』(2003)で大声を出しながら槍を持って家の周りを走っていた男と完全に一致している。あの青年も自分がいつかサムライになる日を夢見ていた。加瀬亮の演じる織田信長は、『3-4X10月』(1990)で北野武自身 ( 演者の際はビートたけし名義 ) が演じた沖縄連合の暴力団組員上原のペルソナのように思える。理不尽に理不尽を重ねる暴君ぶりとセクシャリティの点において両者は一致している。ペルソナというテーマは自身のペルソナをキュビズム芸術のごとく乱反射させた『TAKESHIS’』(2005)をはじめ、北野武の重要なテーマでもある。

『首』の登場人物たちは、それぞれのバックグラウンドなどないかのように権力闘争の渦中にいる。本作において武将は武将であり、農民は農民、忍者は忍者、そして死体は死体だ。背景にあるそれぞれの物語は重要ではない。死後の世界などまるで信じられていないかのような本作だが、例外的に死後の世界が認められた人物がいる。詳細は省くが、ここには北野武がどの視点から映画を、物語を紡いでいるかがよく表わされている。