Oct 05, 2019 column

ジョーカーはいったい何者なのか?ホアキン版で描かれる“虚実の境界”の曖昧さ

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1940年にコミックの世界へ初登場して以来、スーパーヒーロー・バットマンの宿敵として大暴れを続けてきた悪漢、ジョーカー。コミック界、またはそこから派生した各メディアでは星の数ほどヴィランが生まれ、それぞれに異なる悪辣さを発揮しているが、中でもジョーカーは突出して恐ろしい存在だ。そんなヴィランの誕生を描く『ジョーカー』の公開を機に、これまで登場した映画作品やその魅力を考えてみる。

ジョーカーなる存在の核となるもの

その恐ろしさの源泉は、この男がいったいどこの何者で、何を目的としているのかが(その誕生からおよそ80年を経ても)なお分からない、ということにある。

トッド・フィリップス監督、ホアキン・フェニックス主演の最新作『ジョーカー』は言うまでもなく、この稀代の悪役を主人公に据えた映画だ。アーサー・フレック(フェニックス)は、派遣のピエロとして生計を立てている。アーサーは緊張状態になると意図せず笑い出してしまう精神疾患を抱えており、老母と二人の貧しい生活をゴッサム・シティの社会保障で何とかやり繰りしていた。しかし仕事も生活も、それにスタンダップ・コメディアンとして成功したいという夢も、アーサーにとってはつねに思いもよらない苦境をもたらすものでしかない。あまりにも残酷な境遇に、次第に追い詰められていく主人公。いかにも不健康に痩せたアーサー・フレックの身体、そのでこぼこの起伏に陰影が生まれる。いつ爆発するか知れない、狂気の時限爆弾のような不穏なキャラクターに、その肉体ひとつで圧倒的な説得力を持たせている。

ジョーカーの恐ろしさは行動原理の不明さにこそある、と冒頭で書いた。だが今回の映画は、この悪役がどうやって生まれたのかということに、ひとしきり理に適った説明を加えようとしているように見える。見える、というのが実は重要なところだ。善良で心優しいアーサーという男が、いくつかのきっかけを経て精神の均衡を完全に失っていく。病や貧しさ、周囲の人々や老いた家族との確執、自分も知らなかった惨めな生い立ち。そのいずれも、アーサーという男に理性の限界を超えさせるには十分なものだ。しかしそうした苦境のひとつひとつがある男を究極の悪たる存在に変えた、という捉え方もできる反面で、実はそのいずれも単なる出来事にすぎない、という見方もできるところに、この『ジョーカー』という作品の真の恐ろしさがある。そう思えてならないのは、物語の中で起きる物事のどこからどこまでが現実で、またどこからどこまでが明らかに精神を病んだアーサー・フレックの妄想なのかが判然としないからだ。一人の男が狂気に至る、その過程に実は分かりやすい道筋や因果関係など存在しないのかもしれない。現実と見えたことは実のところ妄想で、あるいはまたその逆もあるのかもしれない。すべてが不確実な世界の中で、ただひとつ決定的なこととして語られるのは、狂気と混沌がジョーカーという存在として、ついにある形をとって現れてくる、ということだけだ。

この虚実の境界の曖昧さこそ、ジョーカーなる存在の核となるものだ。1940年に誕生して以来、コミックにおいてこの男の本名はついぞ明かされたことがない。その正体は誰にとっても謎のままだ(キャラクターとしての創造過程に関しても実は同じことが言える。ボブ・ケインにビル・フィンガー、ジェリー・ロビンソンといったジョーカーの誕生に関わった複数のクリエイターが、それぞれに異なるモチーフからキャラクターの着想を得たと証言している。このヴィランがどうやって生まれたのかに関しては、誰の証言も真実と言えるし、逆に誰しも誤っているとも言える。恐ろしい話である)。

その誕生を描くコミック『キリングジョーク』

たしかにジョーカーの誕生物語はいままでにも何度か語られている。今回の映画がその下敷きにしたという、鬼才アラン・ムーアによる1988年のグラフィック・ノベル『バットマン:キリングジョーク』もそのひとつだ。売れないコメディアンが生活苦から犯罪に走る。その過程でゴッサム・シティの番人、バットマンに遭遇。逃げ出した先でコメディアンの男は有毒物質のタンクに墜ち、白い肌に緑の髪、そして耳元まで届く笑い顔が張り付いた異様な姿に変貌してしまう。生まれてくるはずだった子と一緒に妻は死に、男はとうとう正気を失う…。

映画『ジョーカー』をご覧になり、さらに『キリングジョーク』をすでに読まれている方であれば、両作品の関係性については言うまでもないことと思う。

先に書いたように、『ジョーカー』で語られる物語を完全に鵜呑みにはできないと思ってしまうのは、それが下敷きにした『キリングジョーク』において、ジョーカーその人が「時と場合によって思い出すことが違うんだ」と語っているからだ。どうにも信用がならない。すべてが嘘かもしれず、またすべてが真実かもしれない。または一部だけが真実で、その周りに嘘が積み重ねられているのかもしれない。あるいはその逆か。いずれにしても、語られる物事の100パーセントをそのまま信じ込むわけにはいかない。