ラース・フォン・トリアーといえば、デンマークが生んだ鬼才監督。代表作といえば、天才的ミュージシャン、ビョークが主演して、カンヌ国際映画祭のパルムドールに輝いたミュージカル『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(00年)だろうか。実績でいえば押しも押されもせぬ世界的な巨匠と言っていい。ところが、だ。そのキャリアの輝かしさ以上に、トリアーは多くの人から忌み嫌われ、罵詈雑言を浴びせられてきた。そして激しい毀誉褒貶に晒された面倒くさい人間性の集大成のような怪作が、トリアーの最新作『ハウス・ジャック・ビルト』だ。本稿では、この怪作に至るまでの映画作家としてのトリアーを紐解いていく。
「ドグマ95」の提唱、ビジュアル面での試み
トリアーのキャリアを語る上で外せないのが、1995年に同じデンマークの監督仲間たちと「ドグマ95」という映画技法を提唱したこと。これは、手持ちカメラでの撮影、照明の使用禁止、セットではなくロケ撮影に限る、BGMは使わない、などなど、10のルールを守って映画を作ってみようという試み。言い換えるなら、一度ハイテクを手放して、シンプルかつプリミティブな映画作りに立ち返ることで新しい可能性が開けるのではないかという探求の試みでもあった。
トリアー自身は「ドグマ95」の条件を満たす映画は1998年の『イディオッツ』一本しか撮っていないが、世界各地の大勢の映画監督がこの取り組みに参加し、トリアーも「ドグマ95」に倣った自然主義的な手法を多くの作品に採用し、展開させている。
また、トリアーが真逆のチャレンジを試みたのが2003年の『ドッグヴィル』。主演のニコール・キッドマンを筆頭に新旧の豪華キャストが集結したこの悲喜劇を、トリアーはひとつの屋内セットだけで撮影する。物語の舞台はドッグヴィルという田舎の村なのだが、舞台装置は最小限の家財道具のみで、黒い床に白い線を引くことで住民たちの家を表すという抽象的なもの。同じ手法は続編『マンダレイ』(05年)にも引き継がれ、映画のような舞台劇のような独自のスタイルを確立させた。
と、ビジュアル的な部分について述べてみたが、トリアーの最大の特徴は、実はあまりにも極端なその人生観にある。トリアーはおそらく世界でもトップクラスの露悪的な映画監督であり、人間の“性善説”などてんで信じていないのである。トリアーが描く人間の姿とは、愚かで、利己的で、卑劣なものと相場が決まっている。しかし多くの場合、社会生活を営むために善人の仮面をかぶっており、トリアーは観客を逆なでするような挑発的なストーリーや過激な描写で“偽善”の仮面を引っぺがそうとするのである!
“笑えるコント”の領域に踏み込む瞬間
『奇跡の海』(96年)でエミリー・ワトソンが演じたベスや『ドッグヴィル』のヒロイン、グレイスは、一種の善行を積むつもりで自らの身体を男たちに投げ出すのだが、男たちはそんな彼女たちを食い物にし、女たちも誰も助けの手を差し伸べようとはしない。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でビョークが熱演したセルマは、一人息子の病気を治したいという一心で貧しい生活を耐え忍んでいるが、無実の罪を着せられ、断頭台に送られる。トリアーの映画では、世の中とはヒロインを利用しようと牙を剥くか、庇おうにも無力でなにもできないかのどちらかなのだ。言い換えれば、トリアーほどヒロインを苛め抜くサディスティックな監督も珍しく、“女性嫌悪”だと非難される一因にもなっている。
しかしながら、トリアーはただただ不快なものを陳列して見世物にしているわけではない。例えば自らがうつ病に苦しんだ体験を反映させた“うつ三部作”と呼ばれる『アンチクライスト』(09年)、『メランコリア』(11年)、『ニンフォマニアック Vol.1/Vol.2』(13年)を観ると、これまたどうしようもなく愚かな人間ばかりが出てくるのだが、“過激”や“不快”を通り越して、“笑えるコント”の領域に踏み込む瞬間が頻発するのである。
この傾向は、実は“うつ三部作”以前の作品だって変わらない。トリアーの映画は悲劇でありながら、同時に喜劇でもある。例えば『ドッグヴィル』は、無力な女性を村中で搾取するという酷い展開から凄惨な復讐劇へと転じるのだが、どこか他人の悪夢を見ているような冷めた客観性があり、村人たちの本性が酷ければ酷いほど呆れて笑ってしまうという逆転現象が起きる。
似たような事例はほとんどの作品で感じられることで、喜劇か悲劇かは、観客が自分自身の“不愉快の壁”を越えられるか否かにかかっていると言っていい。そしてトリアーのブラックコメディ作家としての才能が、縦横無尽に発揮されているのが、最新作である『ハウス・ジャック・ビルト』なのである。