言葉が支配するサイコ・スリラー
監督・脚本のスコット・ベック&ブライアン・ウッズは、脚本家として『クワイエット・プレイス』で「音を立ててはいけない」恐怖を創造し、ホラー映画に新風をもたらした。しかし、今回の『異端者の家』はその真逆。一軒家という密室で、ひたすら登場人物がしゃべりつづけるスリラー映画である。
したがって、本作の前半はストイックな会話劇だ。それも宗教と信仰をめぐる、かなりハイコンテクストなやり取りである。ところが、その会話がめっぽう面白い。

ほぼ三人芝居となる映画を牽引するのは、ほかでもないリード役のヒュー・グラントだ。緻密な論理とウィットに富んだリードの言葉を流麗なせりふ回しでしゃべり、表情や間を巧みに制御して、パクストンとバーンズ、そして観客をリードの世界に引き込んでいく。ロマンティック・コメディ時代からおなじみのエレガントな立ちふるまいとユーモアが、この邪悪な人物に唯一無二の魅力をもたらした。
もっともリードにとって、これは自身が掌握するゲームだ。“ゲームマスター”である彼は、決してパクストンとバーンズに主導権を渡さない。
「どんな宗教も、どんな神も茶番だ」というのがリードの主張だ。「モノポリーで遊んだことはあるか?」というくだりから始まる怒涛の長ゼリフは、ゲームや音楽などのポップカルチャーを通じて宗教を解体していく彼なりの宗教論。若い宣教師2人の信仰を正面から挑発する言葉の数々は、恐ろしくもどこか愉しい。
しばしば本作は「マンスプレイニングおじさん」の映画だと語られるが、きわめて表面的な見方というほかない。なぜなら真に問題なのは、中年男性が若い女性に上から目線で自説をぶつことではなく、それが彼女たちの、世界に対する信頼を揺さぶることだからだ。
リードのゲームは、彼女たちが信じるものを、ひいては「信じる」という行為をも徹底的に否定する。少なくともリードの中では論理の筋が通っており、彼女たちはそのなかに否応なく巻き込まれる――だからこそ、彼のゲームは本質的に恐ろしい。それは宗教の問題ではなく、もはや価値観と世界観の問題だ。「なぜ信じた?」という一言は、「なぜおまえは、自分が信じたいものを、信じたいように無邪気に信じてしまったんだ?」という問いかけにほかならない。