このように、本作の大部分は「ある男女が出会い、恋に落ち、家族となる」物語を基軸に、夢と現実のギャップを解像度高く描いていく。そのため観客は、シェイクスピアという偉人の巨大なイメージにとらわれることなく、地べたで暮らす生身の人間のドラマとしてその一挙手一投足を見守ることができるのだ。その丁寧なお膳立てを完遂したのちに、『ハムネット』は《現実》に打ちのめされたクリエイターが《夢》の力で以て再起しようともがくコアの部分へと舵を切っていく。そばにいない時間が増えていくなかで息子の死という事件が起こってしまい、夫婦の亀裂は決定的なものに。「死」自体には神話性やファンタジー風味の味付けをしているものの(この舞台的な演出が後々の布石として機能する)、そこに付随する感情描写は実にリアリスティックだ。1年の歳月が流れても「我が子の死に目に不在だった」夫を妻は責め、夫は「我が子の死に目に立ち会えなかった」悔恨で自責の念を抱え続ける。妻の憎悪の対象は夫へと向かい、夫は自分に向かうが(憑依型のバックリーの《攻めの芝居》と、ナイーブな人物造形に定評のあるメスカルの《受けの芝居》のコントラストが絶妙)、残酷にして必然というべきか――その耐えがたい経験は創作へと生かされてもゆく。世紀の傑作舞台「ハムレット」の誕生だ。


ただ、本作はクライマックスに用意された上演シーンを、安易に感動の方向へと持っていかない。夫婦の認識のズレや、創作者の無意識なエゴをきっちりと露わにする。アグネスからすれば、息子を想起させる『ハムレット』というタイトル時点で「息子の死を利用・消費した愚行」としか思えず、事前の相談もなかったために深く傷つけられてしまう。ウィリアムが当事者としてどれだけ自分の中で真摯に向き合ったとしても、同じ当事者であるアグネスにフラッシュバックを引き起こしかねない二次的な加害性を含んでいることは無視できない。これは先日のアカデミー賞で国際長編映画賞に輝いた『センチメンタル・バリュー』(2025) や漫画「恋じゃねえから」「ブルーピリオド」にもみられる今日的な問いともいえ、『ハムネット』が現代の観客に見事にアジャストした作品の証左でもある。実際、複雑な思いを抱えたまま弟に連れ出される形で芝居を見に来たアグネスは、息子の死を《物語》として感動する観客に絶望してその場を後にしようとする。展開重視で登場人物へのケアをおろそかにしない寄り添い方が絶妙だが、そのまなざしはアグネス偏向になっていない。会場を出ようとしたとき、アグネスはウィリアムの「言えなかった辛苦と贖罪」を目撃するのだ。詳細は見てのお楽しみということで省くが、ある舞台上のギミックによって夫の心根に触れ、妻の中に初めて赦しの感情が芽生えていく。

息子の死からの再起と夫への理解が同時に生まれる本シーンを彩るのは、映画『メッセージ』(2016) でも使われたマックス・リヒターの名曲「On the Nature of Daylight」。うがった見方にはなるが、同作もまた「我が子の死を受け入れる」物語であり、サンプリング的な意味合いも含むのかもしれない。もちろん楽曲にまつわるちょっとしたトリビアを知らずとも楽しめるが、既知の層においては感動が増幅するのではないか。こうした様々なレイヤーで楽しめるサブテキスト的な仕掛けもまた今っぽいアプローチであり、日本の漫画・アニメへの造詣が深く、2025年には講談社と制作会社を立ち上げたジャオ監督の“らしさ”も感じさせる。
今回紹介したのは一部分だが、舞台こそ16世紀とはいえ『ハムネット』には所々に現代性が流れている。感情の積み上げ方とシーンの盛り上げ方にも漫画やアニメとの親和性があり、なんとも見やすく、同じ時代の作品としてシームレスに楽しめる。いまを生きる我々に向けた《必然性》と歴史を超える傑作が持つ《深み》を、ぜひ劇場で体感していただきたい。
文 / SYO

舞台は16世紀イングランドの小さな村。薬草の知識を持ち、不思議な力を宿したアグネス・シェイクスピアと、作家としてロンドンで活動する夫ウィリアム・シェイクスピア、そして3人の子どもたちが描かれる。夫がロンドンで働くため、父親不在のなかで子どもたちを守り奮闘するアグネスだったが、やがて不運にも11歳の息子ハムネットを失う。
監督・製作総指揮:クロエ・ジャオ
製作:スティーヴン・スピルバーグ、サム・メンデス
出演:ジェシー・バックリー、ポール・メスカル、エミリー・ワトソン、ジョー・アルウィン
配給:パルコ ユニバーサル映画
©2025 FOCUS FEATURES LLC.
2026年4月10日(金) 公開