Jul 10, 2025 column

映画『顔を捨てた男』 古くて新しい「美」「醜」という呪いの正体

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このあらすじから察せる通り、本作のテーマはルッキズムであり、病気等も絡むためいわゆる「センシティブ」な要素が多い。今という時代を生きる我々にとって、当事者を傷つける恐れがあるためなかなか言葉にしにくい/扱うのをためらわれるゾーンに果敢に切り込みつつ、先に述べた「属性によらず人の数だけ価値観が存在する」一方で、多くの人々の中に絶対的な価値基準として設定されてしまっている「美」「醜」の感覚――それらが存在する残酷な真実を容赦なくえぐり出してくるのだ。エドワードの見た目が変化していく過程で、観客の内側に半ば生理的に生じる不安から安心へのグラデーション。「みんな違ってみんないい」を受け入れられるようにアップデートが叫ばれ、自身もそうあろうとしても、生まれながら備わった“正解”が立ちはだかってくるある種の絶望感を、いやというほど味わわせてくる。

しかも実に狡猾なのは、本作の世界観や雰囲気だ。全編16mmフィルムで撮影されており、構図等々を見ても意図的に懐かしい――もっと言えば古めかしいルックに仕立てている (スマートフォン等の電子機器もほぼ登場しない) 。それでいて描かれている問い自体は現代とリンクする“新しい”ものだから、逆説的に普遍性が強化されてしまうのだ。つまり「時代が進んでも人間が思う“美しさ”は変わらないのではないか? 我々はこの先もずっと、残酷さから逃れられないのではないか」という思考が脳裏をよぎってしまう。監督・脚本を手掛けたアーロン・シンバーグは過去に両唇口蓋裂の矯正治療を受けた経験があり、アダム・ピアソンと組んで外見をテーマに取った作品を発表してきたという。『顔を捨てた男』はいわば彼のライフワークの一環であり、そうでなければ太刀打ちできないほどの強度をもって襲い掛かってくるのだ (イングリッドが芸術の名のもとにエドワードとの日々を舞台化するくだりなど、危うすぎて観ているこっちがヒヤヒヤしてしまうが、劇中劇のメタ構造含めて全て確信犯的に配置されている) 。

“老い”をフックにルッキズムのグロテスクな正体を苛烈に描いた『サブスタンス』と通じる『顔を捨てた男』だが、前者が「より完璧な自分」を目指した結果壊れていくストレートかつ切実な行動原理なのに対し、本作は完璧さを手に入れたのに承認欲求に吞まれ、捨てようとする複雑でアイロニカルな展開が待ち受けている。また、自分の上位互換的な存在が現れるという意味では『複製された男』(2013) や『嗤う分身』(2013) を彷彿とさせるが、昔の自分とうり二つの他者が提示した「外見ではなく内面の輝きこそがその人の魅力を形成する」という学びを無視し「やっぱり元の顔の方がいいんじゃないか」と歪んだ解釈をする主人公像は大きく異なっている。エドワード自身が痛々しいまでにルッキズム (外見至上主義) にとらわれており、自己アイデンティティを確立できていないがために2つの顔を行き来しても満足も安心も出来ず、絶対的な幸福を求めて暴走した末に破滅していく――。理想にたどり着いても終われない男の末路に、同じ時代を生きるあなたは何を思うだろう?その痛みに寄り添い、受け入れられるだろうか。多様性社会の担い手として。

文 / SYO

作品情報
映画『顔を捨てた男』

顔に極端な変形を持つ、俳優志望のエドワード。隣人で劇作家を目指すイングリッドに惹かれながらも、自分の気持ちを閉じ込め て生きる彼は、ある日、外見を劇的に変える過激な治療を受け、念願の新しい顔を手に入れる。過去を捨て、別人として順風満帆な人生を歩み 出した矢先、目の前に現れたのは、かつての自分の「顔」に似たカリスマ性のある男オズワルドだった。その出会いによって、エドワードの運命は 想像もつかない方向へと猛烈に逆転していく‥‥。

監督・脚本:アーロン・シンバーグ

出演:セバスチャン・スタン、レナーテ・レインスヴェ、アダム・ピアソン

配給:ハピネットファントム・スタジオ

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2025年7月11日(金) ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国公開

公式サイト happinet-phantom.com/different-man