70年代の偏執的陰謀スリラー
原作者のロバート・ハリスは、テレビでコンクラーベを観て、「彼らが聖職者というよりは政治家のように映った」という。教皇に選出されるためには、規定となる友好得票数 2/3を獲得しなくてはならない。当然、敵陣営の切り崩しや、政治工作も行われる。我々がスクリーンで目撃するのは、奸計を巡らせてレースに勝利せんとする、あまりにも醜い争いだ。
公明正大なローレンスは、自分の道徳感、倫理観、そして宗教観に基づき、事態の収拾をはかる。積み重なる苦悩。絶え間ない心労。カメラは彼をクローズアップやミディアムショットで捉え、煩悶の表情を至近距離で切り取っていく。横幅の広い2.39 : 1のワイドスクリーンを使うことで、その孤独を強調する。撮影監督ステファーヌ・フォンテーヌによる、計算し尽くされたショットの数々に、思わず息を呑む。

特筆すべきは、光の表現だ。蛍光灯で照らされる光、窓から漏れる光、書類をスキャンする光。この映画には、さまざまな光が登場する。旧約聖書の創世記に「神は光あれと言われた。すると光があった」という一節がある通り、キリスト教において光は重要な意味を持つ。ローレンスにどんな光が差し込んでいるのかによって、彼の内面が巧みに表現されている。

ステファーヌ・フォンテーヌは、撮影の参考作品としてフランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザー』(1972)とアラン・J・パクラ監督の『パララックス・ビュー』(1974)を挙げている。どちらも撮影監督を務めているのは、ゴードン・ウィリス。陰影のコントラストを得意とするマエストロだ。『ゴッドファーザー』のオープニングでは、真上からマーロン・ブランドに強烈な光を照らすことで(いわゆるトップライト)、顔の一部を黒く塗りつぶす画期的な撮影を行っている。
ゴードン・ウィリスが手がけた他の作品でいうと、アラン・J・パクラ監督の『コールガール』(1971)も鮮烈だった。ジェーン・フォンダやドナルド・サザーランドが演じるキャラクターたちは、部屋の片隅にひっそりと佇み、顔の表情が判別できないほど漆黒の闇に覆われている。闇が全体を包み込むことで、逆に光が浮かび上がるのだ。
明暗を強調した表現主義的表現は、サスペンス映画のお家芸。ハワード・ホークス監督の『三つ数えろ』(1944)、キャロル・リード監督の『第三の男』(1949)、チャールズ・ロートン監督の『狩人の夜』(1955)、オーソン・ウェルズ監督の『黒い罠』(1958)など、1940年代から1950年代にかけて隆盛を誇ったフィルム・ノワールは、強烈な光と影がスクリーンを支配した(フィルム・ノワール=film noirとは、フランス語で“暗黒の映画”を意味する)。間違いなく『教皇選挙』も、この系譜に連なる作品と言っていいだろう。