タイトルに込められたさまざまな“境界”
『ぼくのエリ』が少年の純愛ストーリーを軸にしていたのに対し、『ボーダー』は、純愛というより、本能的な愛の物語になっている。孤独な人生を送り、苦悩を内にためこんでいたティーナは、『ぼくのエリ』のオスカーの立ち位置とよく似ている。その孤独と苦悩の扉を開ける存在が目の前に突然、出現するドラマも共通だ。しかし『ロミオとジュリエット』のように“結ばれない”悲恋を描いた『ぼくのエリ』と大きく異なり、『ボーダー』は、ティーナの過去やアイデンティティにフォーカス。そこから愛の物語に発展する“意外性”によって、異形の主人公の運命に我々を引き込んでいく。
何か恐ろしいものに、ついつい魅了されるのは人間の本能。これはギレルモ・デル・トロ作品などとも共通するが、ここで重要なのが、主人公たちの“顔”。『ぼくのエリ』では純真そのものだった主人公たちの顔が、『ボーダー』では特殊メイクで、微妙に変えられている。この“微妙”な違和感こそが、観る者の心をざわめかせる要因だ。特殊な感覚をもち、恐ろしい顔をした彼らは、いったい…という疑問がつねにまとわりつき、その一挙手一投足から目が離せない。この顔について、特殊メイクの参考にされたのが、2万年以上前に絶滅した、ヒト属の一種、ネアンデルタール人と、イギリスの個性派俳優のエディ・マーサンということで、身近に“いてもおかしくない”感じが絶妙なのである。
こうした外見の“違和感”が、ゆっくりと消えていく感覚は、タイトルの『ボーダー』にも込められている。ボーダー=境界を越えることは、本作の大きなテーマ。得体の知れない苦悩にさいなまれてきたティーナが、勇気と本能で自らの秘密に向き合う姿は、壁のような境界を乗り越える行動そのものだ。さらに美しさと恐ろしさ、幸福と不幸、豊かさと貧しさ、そして性別や人種など、あらゆる“境界”がこの世界に存在することを示しつつ、その境界が消えていった先にこそ、新たな人生が発見できる…と、本作は我々観客に教えてくれる。ヴォーレもティーナに言う。「人と違うのは優れているということ」だと。このように境界を“消そうとする”感覚も、『ぼくのエリ』と重ねられるかもしれない。