Dec 18, 2018 column

没後30年、今もなお愛されるバスキア――天才アーティストの誕生「10代最後のとき」に迫る

A A
SHARE

 

80年代のNYアートシーンを牽引した風雲児ジャン=ミシェル・バスキア。フリーダムな作風から“ブラック・ピカソ”とも呼ばれたが、既成概念にとらわれない自由奔放な作品群を見れば、そんなあだ名はバスキアの真価を矮小化しているだけかも知れない。ではバスキアとは何者だったのか? 本人を直接知る映画作家サラ・ドライバーによるドキュメンタリー映画『バスキア、10代最後のとき』の公開をきっかけに考えてみたい。

 

知人が語る、まだ無名だったバスキアの「10代最後のとき」

 

ジャン=ミシェル・バスキアといえば、NYのストリートから颯爽と現れ、80年代を中心に活躍した不世出のアーティスト。昨年5月にはZOZOTOWNの前澤社長が123億円でバスキアの絵を購入したしたことでも話題を呼んだが、その絵を描いた当時、バスキアはまだ21歳の若者に過ぎなかった! ドキュメンタリー映画『バスキア、10代最後のとき』は、若き天才が天才として名を知られる前夜、まだ無名だった10代の姿を、当時をよく知る人たちの証言から浮かび上がらせる試みだ。そしてバスキアだけでなく、1970年代末期から80年代初期のNYアートシーンの活気と冒険心が蘇ってくるのだ。

ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン、カート・コバーンなど、27歳という年齢で亡くなった天才たちは数多く存在する。「27」という数字はある種の伝説的な匂いを帯びているが、バスキアもまた1988年に27歳の若さで亡くなった。その活動時期は10年ほどで、決して短いわけではないが、なぜ家出を繰り返し、ホームレス同然の暮らしを送っていた少年が、これほどの成功を収められたのだろうか?

 

 

バスキアが最初に注目されたのは、「SAMO」という覆面アーティストとしての活動だった。経済の悪化で荒廃したNYのダウンタウンで、街のあちこちにスプレー缶で落書きして回っていたのだ。この時のバスキアは、見方によってはグラフィティアーティストと呼べるのかも知れない。文字の羅列を書きなぐっているだけのようで、言葉選びやデザイン性からはただの落書きでは収まらない才能のひらめきが感じられ、「SAMO」は先鋭的なアート界隈で話題を呼ぶようになった。

『バスキア、10代最後のとき』では、映画監督のジム・ジャームッシュら多くの人たちが、この時期のバスキアについて証言している。その当時から、バスキアは「自分は有名になる!」と信じていた。ストリートをほっつき歩き、寝床を求めて友人知人の家に転がり込み、ライブハウスやクラブなどに出没し、とにかく面白そうな場所に飛び込んでいくティーンエイジャー。誰もが口をそろえて、変わり者だが、魅力にあふれ、エネルギッシュだったバスキアの姿を回想している。

 

才気あふれる若者が集った当時のNYカルチャーシーン

 

伝記映画『バスキア』(Blu-ray・DVD 発売中) (C)2006 PONYCANYON INC.

 

この時期のバスキアの活動の中でも特に伝説となっているのが、後に伝記映画『バスキア』(96年)の脚本を書くことになるマイケル・ホルマンらと組んでいたノイズバンド、グレイだ。バスキア在籍時の音源はあまり残っていないのだが、バスキアはサックスとクラリネットを担当。一時は映画監督/俳優/ミュージシャンのヴィンセント・ギャロも参加しており、1980年前後のNYの一角に、いかに才気あふれる若者たちが集まっていたかが窺い知れる。バスキアやギャロだけでなくジム・ジャームッシュも音楽活動をしていたし、アート、音楽、演劇、映画がお互いに刺激を与え合っていた。誰もがひとつの表現に留まらず、多ジャンルを越境しながら、自分の道を模索していたのである。