How Does It Fee l? 音楽は誰のもの ?
1964年のニューポート・フォーク・フェスティバル。『名もなき者』はボブ・ディランが「時代は変わる」をステージで演奏したとき、ピート・シーガー、そしてフェスティバルのオーディエンスの夢を達成する。オーディエンスとのシンガロング。共に歌うことが団結を呼ぶ。曲の歌詞が人と人とをつないでいく。爆発的な現象。まさに“時代は変わる”!ポップミュージックはオーディエンスのもの!この演奏シーンには名曲がボブ・ディランという身体を離れ、オーディエンスのものになっていくのを目の当たりにするような感動がある。それはピート・シーガーが思い描いていた夢の実現だった。
しかし本作の“第二部”といえる1965年のボブ・ディランは、全身ブラックのコーデでロックスターのように夜のニューヨークを歩く。このシーンはボブ・ディランのニューヨークにおける第2の人生が始まることを告げている。新たな自己発明。ボブ・ディランはフォーク・シーンのカリスマ、救世主というレッテルを剥がす。友愛と共助の理想主義者ピート・シーガーは、ボブ・ディランにとって“敵”ではない。たとえ政治的に近い意見であろうと、ボブ・ディランは個人の意思を集団の意思に乗せることを拒否している。若き日のボブ・ディランのアティテュードこそ本物の、オリジナルのパンクだったのではないだろうか。
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自己発明に次ぐ自己発明。トッド・ヘインズ監督が『アイム・ノット・ゼア』(2007) で6人の俳優を通してボブ・ディランを描いたように、ボブ・ディランは自身のペルソナを変化させていく。劇中でボブ・ディランとシルヴィ・ルッソが映画館で見る名作『情熱の航路』(1942) が様々なシーンで反響している。ベティ・デイヴィス主演のこの映画は、名家の女性が母親の支配から逃れるために新たな自分を作り直す物語だ。旅立ち、出発の象徴としての船。スージー・ロトロがボブ・ディランから受け取った手紙によると、彼女がヨーロッパに出発する際、ボブ・ディランは船が遠くに小さくなっていくまでスージー・ロトロを見送っていたのだという。そして「(ボブ・ディランの)手紙と歌には同じリズムがあった」。
『名もなき者』の特筆すべきところは、歌が登場人物のモノローグや物語と響きあっているところだろう。しかし、もし歌と個人的な手紙が同じリズムの鼓動を打っていたとするならば、この歌=手紙はいったい誰のものになるのだろうか?ボブ・ディランの音楽はもはや自分だけのものではない。新規のファンがボブ・ディランという最新のポップスターを見にフェスティバルにやって来ている。歌が自分ではない別の人のもの、さらにオーディエンスのものとして手に負えないくらい巨大化していくにつれ、シルヴィ・ルッソとボブ・ディランの心の距離は残酷なまでに引き離されていく。どうやって魂を保つのか。爆音のエレクトリックステージでボブ・ディランは、“どんな気分だい(How Does It Feel)?”と自分自身とオーディエンスに問いかけている。“一人ぼっちで、帰る家さえないのは、どんな気分だい?”
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自分を育ててくれたコミュニティを振り返らずに去っていく。ボブ・ディランは世代の代弁者であること、救世主として祭り上げられることを拒否した。個人の感情や歌がイデオロギーに利用されることを拒んだ。『名もなき者』が浮かび上がらせるのは、いまいる安住の地にいつか終わりがくることを知っている者の矜持だ。出発と別れはコインの裏表の関係にある。ボブ・ディラン=ティモシー・シャラメのハーモニカが、さよならのブルースを奏でている。さよならの言葉の代わりにメロディの花束を。“別のマッチを擦れ、新たに始めるんだ、すべては終わったんだ、ベイビー・ブルー” (ボブ・ディラン「It’s All Over Now, Baby Blue」)。
文 / 宮代大嗣
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60年代初頭、後世に大きな影響を与えたニューヨークの音楽シーンを舞台に、19歳だったミネソタ出身の1人の無名ミュージシャン、ボブ・ディランが、時代の寵児としてスターダムを駆け上がり、世界的なセンセーションを巻き起こしていく様子が描かれる。
監督:ジェームズ・マンゴールド
出演:ティモシー・シャラメ、エドワード・ノートン、エル・ファニング、モニカ・バルバロ、ボイド・ホルブルック、ダン・フォグラー、ノーバート・レオ・バッツ、スクート・マクネイリー
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
©2025 Searchlight Pictures.
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