A24史上最高の予算がかけられた『シビル・ウォー アメリカ最後の日』。本作にはアメリカ大陸を舞台とする内戦が、ベトナム戦争映画のように、さらにいえば『地獄の黙示録』のように描かれており、独裁政権が反政府軍によって打倒されようとしている。この作品を大統領選挙のある年に公開するのは極めて挑発的な行為といえる。風刺漫画家の父を持ち、幼少の頃は父の友人のジャーナリストに囲まれて育ったイギリス人映画監督のアレックス・ガーランドは、権威主義やファシズムとまったく無縁の国はないと主張している。そしてますます分断されていく世界の抑止力として真のジャーナリズムの必要性を挙げている。本作には未来のディストピア=アメリカで活動する戦場カメラマン、ジャーナリストたちが描かれている。筆者がこの映画を見たのは、ドナルド・トランプ前大統領の狙撃事件の翌日だった。優れた映画は現実の“鏡”であり、ときに世界への不吉な予言となるものだが、まさに映画と似たような事件が現実に起こったことに身震いがした。
『シビル・ウォー』は政治的な挑発性以前に、画面と音響に映画としての圧倒的な強度がある。シルヴァー・アップルズやスーサイドの楽曲の斬新な使い方をはじめ、ベン・ソーリズブリーとポーティスヘッドのジェフ・バーロウの手掛けたスコアも素晴らしい。是非スクリーンで体験してほしい2024年の最重要作品だ。キルステン・ダンストの演じるリー・スミスは、“アメリカの病”を一身に背負っている。
“シュート”=撃つ・撮る
『シビル・ウォー アメリカ最後の日』(2024)は大統領が演説の練習=リハーサルをするシーンから始まる。反政府軍による首都陥落が近づいているにも関わらず、歴史的な勝利が近づいていることを国民に語りかけるアメリカ合衆国大統領。機能不全に陥ったアメリカ。既にFBIは解体され、民間人への発砲が軍に要請されている。任期3期目の大統領は独裁政権の末期にある。フリーウェイには廃車の山が重なり、行き場を失った人々はスタジアムで避難生活を強いられている。ニューヨークのホテルに滞在するカメラマンのリー・スミス(キルステン・ダンスト)。部屋のテレビにはホワイトハウスの大統領会見の様子が映し出されている。リーはモニターに映った大統領に向けシャッターを切る。銃の代わりにカメラを。戦場カメラマンのリーにとってカメラは自分の手足の一部だ。“シュート”という単語は、銃を撃つことにも写真を撮ることにも用いられる。兵士が銃を構えるようにリーはカメラを構える。
これまで異国の戦地をカメラに収めてきたリー。彼女には故郷であるアメリカに警鐘を促す目的があったはずだ。アメリカ国内が戦場になるという未曾有の事態を前に、リーの顔には疲労の影がうかがえる。ホテルのバスタブに身を沈め手で顔を覆うリーには、ジャーナリズムの価値そのものに対する葛藤がある。4人のジャーナリストがニューヨークから最前線であるワシントンD.C.に向かう。悲劇的な結末が予想される大統領の最後のインタビューを行うために。これまでのリーの活動がそうであったように、前線に行くことは自殺行為に等しい。経験と知恵を併せ持つベテラン・ジャーナリストのサミー(スティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソン)の“前線”という言葉に、リーは激しい拒否反応を示す。我々は“前線”ではなく、あくまで“ワシントンD.C.”に向かうのだと。リーの反応には戦場カメラマンとしての彼女の姿勢がよく表わされている。戦場カメラマンは主観的なロマンではなく客観的な事実をカメラに収めるのだと。殺戮の現場にロマンはない。個人的な政治的思想の介入はない。ただ客観的な事実だけがそこにある。リーの姿勢は、前線に向かうことに全身からアドレナリンが放出していることを隠さないジョエル(ワグネル・モウラ)とは、まったく対照的である。ジョエルは爆撃の風景に性的興奮さえするという。
しかし『シビル・ウォー』という作品に圧倒されるのは、ジャーナリストたちが危険に向かって行くというより、むしろ望んで危険に吸い込まれていくような、その過剰な近さにある。ジャーナリストたちは銃を構える反政府軍と共に行動する。常に生きるか死ぬかの瀬戸際に立ち続ける。反政府軍がターゲットを狙撃するために潜伏する、息を殺すような瞬間でさえ、彼らは行動を共にする。リーを尊敬している戦場カメラマン志望の若きジェシー(ケイリー・スピーニー)の恐怖に慄く過呼吸には、この映画のコアとなるエモーションが強烈な形で刻みつけられている。最前線の危険をカメラに収めることは、容赦のない恐怖であると同時にカメラマンにとっての最大の興奮でもあるということだ。ジェシーは人生で一番の恐怖を感じた瞬間に、命が躍動するのを感じたという。