誰もが知る名セリフをあなたへ ACクリエイトの歴史を振り返る

1970〜1980年代。ブロックバスター映画の時代。『ジョーズ』、『スター・ウォーズ』、『エイリアン』などなど、数え上げたらキリがないほどの名作洋画が生まれた。

これら映画の原体験を、劇場で鑑賞した人もいれば、テレビ放送の吹替版で観た人もいれば、レンタルビデオ・DVDを借りて見た人もいるだろう。その中にあなたの心に今でも残る名セリフはなかっただろうか? こういった映画史に輝く名作洋画の字幕翻訳、吹替版制作を行ってきたのが、ACクリエイトだ。

『スタンド・バイ・ミー』、『13日の金曜日』シリーズ、『ロボコップ』シリーズ、『スパイダーマン』シリーズの字幕翻訳を担当した、創業者の菊地浩司の下に、映画字幕翻訳家の石田泰子、林完治が集まり、ACクリエイトは映画業界において確固たる地位を築いていく。

その会社の成り立ちは、文字どおり波瀾万丈である。時代の波に乗り、1970年代から今日に至るまで、様々なエンターテインメントの字幕・吹替版を制作してきたACクリエイトが、今年で40周年を迎えた、この機会にACクリエイトの功績、映画字幕、吹替の歴史を振り返る。


映画字幕業界の原則はいかにつくられたか?

大学卒業後、ベルギーへ遊学し帰国した菊地浩司は、ドリンクを販売し、部屋の片隅で映画を上映する映画喫茶でアルバイトをしていた。そこでかけられる洋画の16ミリフィルムへ字幕をつけるため、映画字幕制作会社テトラに行き、字幕翻訳のイロハを学ぶ。これが菊地が映画字幕翻訳に携わるきっかけとなる。

1974年、菊地は持ち前の語学力を活かし、高円寺で英会話教室Apple English Clubの経営を始める。これと並行して、学校、公民館などで上映するハリウッド映画の名作を翻訳字幕を担当するようになり、テトラ、日本シネアーツといった、映画字幕制作会社に出入りするようになる。

当時は映画フィルムに字幕を入れるノウハウはあったが、テレビ用のマスターテープに字幕を入れるノウハウは確立していなかった。菊地は、翻訳字幕翻訳のみならず、字幕入れのスタジオ作業も自分で始めるようになる。三十路を迎えた菊地浩司は、個人事業主として映像翻訳会社ACクリエイトを創業し、東京都中野区新井薬師に事務所を構える。

このとき菊地は、高島忠夫を司会に据えたテレビ番組「ゴールデン洋画劇場」(CX系)で、映画本編前に流す特集映像として、毎年、未編集のアカデミー賞授賞式の映像3時間丸ごとの翻訳を個人で請け負っていた。一人では抱えきれない作業量に、菊地は翻訳スタッフを募集。そこで採用されたのが石田泰子だ。

石田はACクリエイトでキャリアを積み、後に『トレインスポッティング』(1996)、『バットマン ビギンズ』(2005)、『不都合な真実』(2006)、『マンマ・ミーア!』『ダークナイト』(2008)、『グレイテスト・ショーマン』(2017)などを手掛ける映画字幕翻訳者となる。

当時のACクリエイトでは、劇場映画をVHSビデオソフト化する際、劇場用の縦書き字幕を読みやすくするため、画面下へ移動し横書きに直す業務を主に請け負っていた。

戦後の映画字幕は、映画字幕制作会社テトラが作った「映画フィルムに1フィート3文字」というルールがあった。しかし、ビデオ化により1コマという概念がなくなってしまった。そこで菊地は、元来の「1フィート3文字」ルールをもとに「1秒4文字」の原則を定めた。本来、計算上1秒4.5文字になるのだが、わかりやすくするためにこうしたそうだ。以降、これが字幕翻訳界のルールとなる。

映画翻訳家の石田泰子が、ACクリエイト在籍当時を振り返る。

「浩司さんは口癖のように言っていた『いいものをつくるんだ』って」

業界大手の会社にライバル心をむき出しにし、情熱を持って細やかで真摯に仕事をする。こうした取り組みのひとつひとつが、日本映画業界の礎となり、我々の良き思い出の土台になっていることは、間違いない。

語学力を武器に時流に乗る

1981年、後に『スターウォーズ』シリーズ、『マトリックス』シリーズなどの字幕翻訳を手掛けるようになる林完治が、菊地の経営する学習塾・ACアカデミーで講師のアルバイトを始める。それより後、ACクリエイトの営業・字幕制作スタッフとなる。当初、翻訳スタッフとしての採用でなかったのは驚きだが、現在、東北新社が運営する映像テクノアカデミア映像翻訳科の講師も務めていることも考えると、この経歴も納得するところがある。

林が「大体、1作品につき一晩、長い作品で二晩、編集室に泊まっていた」と当時の忙しさを語るように、この時期、映画のホームビデオの販売が盛んになり、ACクリエイトは日本語版制作需要に乗る。こうして、1983年、ACクリエイト株式会社が設立されることになる。

翌年、字幕翻訳界の大御所・清水俊二を中心に映画翻訳家協会が設立。創立メンバーとして、菊地と共に名を連ねる映画翻訳家・戸田奈津子は「字幕の業界でビジネスとして会社を立ち上げて、成功させたのは彼一人だ」と断言する。

菊地は、日本が海外進出へ目を向け始めたバブル前夜の安定成長期に、英会話教室、学習塾、映像翻訳会社と、得意分野である英語を軸に多角経営をしていた。まさに時流に乗る起業家だったわけだ。

ハリウッドへ直接営業

ACクリエイトの勢いはまだまだ止まらない。1986年、新橋に事務所を移転し、字幕製作制作専用アップルスタジオ設立する。

1980年代後半から1990年代前半にかけて、レーザーディスク(LD)が普及し始めると、ビデオテープ(VHS)では1本につき字幕版、吹替版のどちらかしか対応できなかった2カ国語対応が1枚で可能になる。そのため、ACクリエイトは字幕だけでなく吹替の分野に進出する。そして、ACクリエイトとして、初の吹替版LDソフト『グーニーズ』を制作することになる。

業務を拡大した結果、新橋の事務所が手狭になりオフィス移転を考えていたところ、港区浜松町にあった株式会社ギャガ・コミュニケーションズ(現・ギャガ株式会社)の会社移転を機に、当時社長であった藤村哲哉の紹介で、その跡地にオフィスを移す。

その後、1994年2月に港区西新橋の現住所に移転。1998年1月には、港区浜松町に日本語吹替版制作のための録音施設として、浜松町スタジオ(現・ACスタジオ)を開設。3つのアフレコスタジオと1つの編集室、簡易収録スタジオを備える。

このように順調にACクリエイトは事業を拡大していくわけだが、後発の制作会社だったため、テレビ局からの日本語吹替の受注は乏しかった。そこで菊地は積極的に動く。吹替制作を受注するため、渡米し直接営業活動を行うのだ。その努力の末、本国のドリームワークスから直接仕事を受注するようになる。後のドリームワークス作品『シュレック』で、吹替声優として、シュレック役に濱田雅功、フィオナ姫役に藤原紀香をキャスティングしたのもACクリエイトの仕事だ。恐らく、主人公が関西弁でしゃべる吹替アニメーションは、これが初ではないだろうか?

DVDからBlu-ray そして多チャンネルから配信へ

1999年にSONYが家庭用DVDプレーヤーを発売したことを受けて、DVDの普及が進み、DVDパッケージ用特典字幕の需要が増え始める。この流れは、その後のBlu-ray需要まで続くことになる。そして同時に、世の中は多チャンネル時代に突入する。これにより、ACクリエイトによる放送用字幕、日本語版制作の需要が増加する。

劇場映画作品の字幕翻訳、映像ソフト化による字幕、吹替制作に続いて、海外ドラマ放送の字幕、吹替を担うようになったACクリエイトは、さらにその活動の場を広げる。

2000年代に入ると、ゲームソフト向けの音声収録事業も開始。「PLAYする映画」というキャッチコピーで発売されたPS3ゲーム「アンチャーテッド エル・ドラドの秘宝」、オープンワールドアクションRPG「Horizon」シリーズ、アクションベンチャーゲーム「Ghost of Tsushima」など、数々のビックタイトルの音声収録を手掛けた。

2008年1月には、映画『フィクサー』のシナリオ対訳本の発行を機に、AC BOOKSを立ち上げ、出版物の企画制作・販売事業を始めるようになる。

こうしてACクリエイトは、映画、ソフトだけでなくドラマ、ゲーム、出版とジャンルの枠を越え、海外作品とその文化を日本に結びつけてきた。そしてご存じのように、近年ではNetflix等配信サービス向けコンテンツの日本語版制作の需要が爆発的に増えている。これらもACクリエイトが担っている。

あなたが今まで触れてきた映像作品には、きっとACクリエイトが字幕翻訳、日本語版制作を手がけたものがあるはずだ。

創業者の菊地浩司は、あるインタビューで「字幕づくりにおいては、要素は切り捨ててはいけません。切り捨てるのではなく”凝縮”するんです。セリフの言葉をそのまま訳すのではなく、意味や気持ちを訳すことが大切です」と語っている。

お気に入りの作品を”映画翻訳”という点にフォーカスして振り返ってみてはいかがだろうか。