Feb 23, 2024 column

『落下の解剖学』が暴く、不確かな“真実性”

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2024年3月11日、本年度のアカデミー賞授賞式が行われる。これに先駆け今月からノミネート作品が順次公開されている。ここでは本年度のカンヌ国際映画祭でコンペディション部門最高賞、ゴールデングローブ賞で2冠に輝き、オスカー受賞を有力視されている『落下の解剖学』の巧妙な演出を紹介したい。

“見えない”ではなく、“見えにくい”

第76回カンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞し、第96回アカデミー賞でも作品賞を含む5部門でノミネートされている注目作『落下の解剖学』が、2月23日(金)より公開中だ。

人里離れた雪深い山荘で、著名なドイツ人作家サンドラ(ザンドラ・ヒュラー)の夫サミュエル(サミュエル・タイス)が転落死する。死体発見者は、視覚障がいのある11歳の息子ダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)。果たしてこれは事故なのか、自殺なのか、それとも他殺なのか。起訴されたサンドラは、古くからの友人であるヴァンサン(スワン・アルロー)に弁護を依頼。裁判で無実を主張するが、少しずつ隠されていた秘密が露わになっていく‥‥。

監督を務めたのは、これが長編4作目となるジュスティーヌ・トリエ。カイエ・デュ・シネマの第10位に選出された長編1作目『ソルフェリーノの戦い』(2013)で注目を集め、その後も『ヴィクトリア』(2016)、『愛欲のセラピー』(2019)と立て続けに話題作を発表。男女平等の推進団体「Collectif 50/50」のメンバーでもあり、政治的・社会的な発言を積極的に行うことでも知られている。パルムドール受賞時には、マクロン大統領の年金制度改革・文化政策を批判したことで話題となった。本作がアカデミー国際長編映画賞のフランス代表から漏れたのは、この批判が原因とも言われている。

主演女優ザンドラ・ヒュラーとは、『愛欲のセラピー』に続く2度目のコラボレーション。実生活のパートナーでもあるアルチュール・アラリと共同で脚本を担当したトリエは、当初から彼女を想定して執筆したという。『ありがとう、トニ・エルドマン』(2016)など母国ドイツで活躍してきたヒュラーは、今作の演技でアカデミー主演女優賞にノミネート。日本では5月24日に公開されるジョナサン・グレイザー監督の『関心領域』(2023)にも出演しており、こちらもアカデミー5部門ノミネートされており、今年は国際的な飛躍となる年になりそうだ。

ジュスティーヌ・トリエにとって、そしてザンドラ・ヒュラーにとって、『落下の解剖学』は非常に重要な1作となった。だが、この映画を一言で形容するのは非常に難しい。あらすじだけを追えばミステリーに分類できそうだが、決してアガサ・クリスティのような謎解きものではない。犯人は誰なのか?というフーダニット、どのように事件が起きたのか?というハウダニットには主眼が置かれていないのだ。

むしろこの映画は、真実の姿を観客から遠ざけようとする。法廷は真相を究明する場ではなく、蓋然性を証明するための場。物的証拠と状況証拠から、実際に何が起きたのかを類推するだけ。あえてフラッシュバックを封印する巧みな話術で(一部フラッシュバックを採用しているが、肝心な場面になると、レコーダーから流れる音声だけになる)、ジュスティーヌ・トリエは観客を真実の迷宮へと誘う。サンドラが無罪なのか有罪なのか、確固たる事実を伏せたまま。

ジュスティーヌ・トリエは、死体の第一発見者ダニエルを視覚障がい者という設定にすることで、真実の正体を曖昧模糊なものにすることに成功している。彼は視力が悪いのであって、決して盲目ではない。つまり、真実は“見えない”ものではなく、“見えにくい”もの。それゆえに、我々は薄暗闇の向こうに見えるビジョンを、まごうことなき真実として受け取ってしまう。それがあまりに不確かなものだと知っていたとしても。

おそらくこの映画で唯一真実を知る存在は、ダニエルに付き添う盲導犬のスヌープだけである。