Jan 27, 2020 regular
#39

誰もが持っている芸術家の魂

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林田 直樹

音楽ジャーナリスト・評論家。1963年埼玉県生まれ。オペラ、バレエ、古楽、現代音楽など、クラシックを軸に幅広い分野で著述。著書「ルネ・マルタン プロデュースの極意」(アルテスパブリッシング)他。インターネットラジオ「OTTAVA」「カフェフィガロ」に出演。月刊「サライ」(小学館)他に連載。「WebマガジンONTOMO」(音楽之友社)エディトリアル・アドバイザー。

その人とはたった一度の出会いなのに、強烈な印象を残すことがある。ときには、そのときの会話が、人生を通じて影響を与え続けることだってありうる。ここではそんな出会いのことについて、書いてみようと思う。

その人の名は、フルート奏者の有田正広さん。1970年代より現在に至るまで第一線で活動を続ける、日本における古楽演奏のパイオニアの一人でもある。
17年ほど前にある音楽大学でインタヴューを行った際、有田さんがこう語っておられたのが、忘れられない。

「舞台に出て演奏しさえすれば、それでもう音楽家なのでしょうか?」

この問いかけは、いまもなおずっと、こだまし続けている。
あのときの有田さんの穏やかな声と口調まで、はっきりと耳に残っている。
有田さんは、続けてこうもおっしゃっていた。

「そうではないですよね。舞台に出るだけが、舞台に出さえすれば音楽家というわけじゃない。一方で、演奏しなくたって、たとえばステージマネージャーのような裏方さん、音楽にまつわる様々な関係者の中にだって、立派な音楽家と言える人もいますね?」

ずいぶん昔の記憶なので、細部は違っているかもしれないが、だいたいそんな内容だった。
では一体、真の音楽家とは何なのか?
あれ以来、この疑問がずっと残っていて、ことあるごとに頭をもたげるようになった。

スウェーデンの映画監督イングマール・ベルイマンの制作したオペラ映画「魔笛」(原題:Trollflöjten 1975年)をご覧になったことはあるだろうか?
北国のイメージと詩情豊かな、大胆なところもあるが、古典的風格を備えた名作である。

モーツァルトの管弦楽曲のひとつとしても大傑作といえる、あの序曲のシーンを、ベルイマンはどう撮影していたか。
演奏するオーケストラ奏者たちの顔、あるいは楽器などは、全く映っていなかった。
それに耳を傾ける聴衆の顔を、一人ひとりの表情だけを、次から次へと、ときにはモーツァルトの肖像画を挿入しつつ、撮っていたのである。

最初は客席のなかの一人の女の子の表情のアップから始まる。やがて老若男女、あらゆる肌の色の人々が、音楽を聴いている人のいろいろな顔が、一人ひとり、どんどん写し出されていく。
あたかも、その人たちの心の中にこそ音楽はある、とでも言いたげに。
彼らがどれほど、音楽の中に、舞台上で起こることに対して、大きな期待を持っているかということを示しているかのように。

音楽を一心不乱に聴いているとき、人は最も神秘的で美しい表情をする。
それをベルイマンはよく知っていたのだ。

有田正広さんの言葉と、ベルイマンの映画を通して、私はこう考えるようになった。
たとえ音楽家という職業を選ばなかったとしても、全然別の仕事をしていたとしても、観客の中には、真の音楽家が、芸術家の魂を持った人々が、たくさんいるのだと。

音楽とは、作曲家が楽譜に書いただけでは、まだ中途半端である。

それが優れた演奏家によって、音になったとしても、まだ足りない。
その音が、コンサートホールに響き、聴衆の耳に届いたとしても、まだ少し足りない。
聞こえていても、聴きとろうとしていないケースもあるからだ。
音は、受け身ではなく、貪欲にこちらから取りに行くものだから。

聴き手の耳に音が届き、それが心の中で像を結んで、何かが起きて、初めて、それまでのプロセス全体を音楽と呼ぶのだと思う。
そこに至るまでの媒介者すべてが、音楽家なのではないだろうか。

だから、決して諦めてはいけない。
自分がステージに上がって演奏する音楽家にならなかったとしても。
音楽とは全く関係ない、別の職業を選んでいたとしても。
あなたはもう、充分に立派な魂を持った音楽家かもしれないのだから。

※この連載はこれで最終回です。短い間ですが、どうもありがとうございました。またどこかでお読みいただける機会がありますように。

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