Sep 09, 2019 regular
#23

ベートーヴェン生誕250年を前に、ますます重要性が高まるオペラ「フィデリオ」

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林田 直樹

音楽ジャーナリスト・評論家。1963年埼玉県生まれ。オペラ、バレエ、古楽、現代音楽など、クラシックを軸に幅広い分野で著述。著書「ルネ・マルタン プロデュースの極意」(アルテスパブリッシング)他。インターネットラジオ「OTTAVA」「カフェフィガロ」に出演。月刊「サライ」(小学館)他に連載。「WebマガジンONTOMO」(音楽之友社)エディトリアル・アドバイザー。

昨年、今年と、ベートーヴェン唯一のオペラ「フィデリオ」の上演が相次いでいる。2020年に生誕250年という記念イヤーを迎えるルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)の音楽を考える上で、決して避けて通ることのできない、「フィデリオ」の重要性について、最新の演奏の話題を交えつつ、触れてみたい。

パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団によるオペラ・コンチェルタンテ・シリーズ第2弾「フィデリオ」(8月29日、9月1日 Bukamuraオーチャードホール)の演奏に接して、、改めて思った――コンサート形式のオペラもやはりいいものだ、と。

この「フィデリオ」に関しては、昨年5月~6月に新国立劇場でカタリーナ・ワーグナー(バイロイト音楽祭総監督、作曲家ワーグナーのひ孫)の新演出による、優れてはいても悪夢のような舞台に接して、ほとんどトラウマのような状態を私は引きずっていたから、ようやく純粋に音楽的な上演に接することで、すっきりした気持ちになったというのが正直なところだ。

「フィデリオ」は、平たく言ってしまうと勧善懲悪の物語である。
無実の罪で囚われた夫フロレスタンを、男装してフィデリオという偽名を使って潜入し救出しようとする勇敢な妻レオノーレ。最後は「女の鑑」としてその愛をたたえつつ、自由賛歌へとつながっていくというストーリーなのだが、こともあろうにカタリーナは、どん底に叩き落すような結末へと変えてしまった。

あのとき、私が感じてしまったのは、
「抵抗したって勝てっこない。抑圧的状況を変えるために闘うこと自体が無駄だ」
というニヒリズムであり、生きる希望へと人を向かわせない絶望と、 自由という観念の輝きに泥を塗られたような後味の悪さであった。

それを引きずっていたから、今回のパーヴォ・ヤルヴィ指揮のコンサート形式で、あの悪夢が払しょくされ、純粋に音楽だけでまっすぐ「フィデリオ」に向き合えたのは実に精神衛生上良かったのである。
いつの時代であっても十分に通用する普遍的でポジティヴなエネルギーを、「フィデリオ」の音楽は、やはり放射していた。

とりわけ最後の場面での合唱の歓喜の盛り上がりは、あの「第9」に匹敵する白熱であり、ベートーヴェンの交響曲が好きな人であれば、体験しないのはあまりにもったいない。オーケストラ音楽のファンが、オペラに進もうとするときのきっかけにもなりうる名作である。

エストニア生まれのパーヴォ・ヤルヴィ(1962年生まれ)は、いま世界中でももっともエキサイティングなベートーヴェンを演奏できる指揮者の一人である。

そのパーヴォが指揮するベートーヴェンを、久しぶりに聴いて感じたのは、過剰な重々しさがまったくなく、軽やかでさえあったこと。
パーヴォの演奏は、どの作曲家の作品でもそうだが、特にベートーヴェンでは、ステージから客席に向かって、確信に満ちた強い風が吹きつけてくる。あたかも過去のしがらみから解放されたような、明快で、骨格のしっかりした、贅肉のない音楽なのだ。
(ちなみに、第1幕の前には通常通りの「フィデリオ」序曲が、第2幕の前には、ベートーヴェンが何度もこのオペラを書き直す過程で生み出された名曲のひとつ、「レオノーレ」序曲第3番が演奏された)

最強の顔ぶれを揃えた歌手陣も、良かった。
とりわけ、第2幕冒頭のアリア「神よ!ここは何という暗さだ」で、フロレスタン(ミヒャエル・シャーデ)の第一声で、「Gott!(神よ)」という長く引き伸ばされた声の、何と寂しく、孤独で、痛々しかったことか。

それは、ただ英雄的に長く引っ張っているのではない。
恐ろしい静寂のなかで――耳の病気で聴覚を奪われていたベートーヴェンが、感じていたに違いない苦しみを思わせる闇のなかで――救いを求める思いがそのまま、声にもれ出たような――たった一音のなかに、シャーデはそれほどのドラマを込めていた。

その妻レオノーレ(アドリアンナ・ピエチョンカ)は、思いやりと優しさと人間味にあふれた魅力的な女性そのものだった。ただ楽譜通り歌うのではなく、そういう共感性をもって、ピエチョンカは自分自身のすべてを役柄に丸ごと投げ込んでいた。歌唱に切実さと愛があり、それが極まって自然と演技してしまうような熱があった。
だから説得力が違った。

その他のキャストも合唱も、声とのバランスに配慮したパーヴォの指揮のもと、前へ前へとドラマが進んでいく求心力ある音楽の一部となっていた。

それぞれの歌手が声の個性を生かしながら役柄に没入した演奏は、演出なしでも十分にドラマティックだった。鈴木准(ジャキーノ)、モイツァ・エルトマン(マルツェリーネ)、フランツ=ヨーゼフ・ゼーリッヒ(ロッコ)、大西宇宙(ドン・フェルナンド)、アドリアンヌ・ピエチョンカ(レオノーレ)、ミヒャエル・シャーデ(フロレスタン)。パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団、新国立劇場合唱団 8月29日Bunkamuraオーチャードホール 写真: K. Miura 

第1幕では、自分たちの幸せやお金のことばかり考えている、小市民的でコミカルな愛憎劇が繰り広げられている。ドラマが一気に深刻さを増す第2幕に比べ、それを退屈だと言うオペラ・ファンは多い。
だが実は、彼らの暮らしの日常は、囚人たちを非人間的に扱う監獄の上に、悪に無意識に加担することの上に乗っかって、成り立っているということに気付くべきである。
そして、真実に気づき、それを語ってしまった人は、過酷な報いを受けなければいけない――。
この構造は、現代にも通じるものがある。

そうしたなかで、私たちはどう振る舞ったらいいか。
監獄の規則と任務に忠実な人たちのなかで、少しでも人間らしく振る舞おうとするやりとりが、このオペラのなかには、何度も出てくる。
そう、私たちは、ただ決まりだからといってルールを守るだけではなく、それよりも上位に「人間らしく優しさと思いやりを持って行動すること」を行動の規範に置くべきなのだ。
そのことの積み重ねの上に、自由と喜びへの道が開かれている。

「フィデリオ」は、小さなエピソードや会話のなかにも、ベートーヴェンの音楽の哲学にも通じるような、そういった重要な含意が豊かに散りばめられているオペラであることを、忘れてはならない。
音楽と言葉を生き生きと、ありのままに伝えてくれた今回の上演は、それを改めて教えてくれた。

※8月29日、Bunkamuraオーチャードホールにて所見

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