Sep 02, 2019 regular
#22

“21世紀の最高傑作オペラ”との呼び声高い「リトゥン・オン・スキン」は、なぜプロヴァンスをテーマにしていたか?

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林田 直樹

音楽ジャーナリスト・評論家。1963年埼玉県生まれ。オペラ、バレエ、古楽、現代音楽など、クラシックを軸に幅広い分野で著述。著書「ルネ・マルタン プロデュースの極意」(アルテスパブリッシング)他。インターネットラジオ「OTTAVA」「カフェフィガロ」に出演。月刊「サライ」(小学館)他に連載。「WebマガジンONTOMO」(音楽之友社)エディトリアル・アドバイザー。

ようやく世界のオペラ界の最先端が日本でも紹介された。
8月28、29日にサントリーホールで日本初演されたオペラ「リトゥン・オン・スキン」(ジョージ・ベンジャミン作曲 マーティン・クリンプ台本 大野和士指揮 東京都交響楽団 針生康舞台総合美術)。
2012年に南仏のエクサン・プロヴァンス音楽祭で世界初演されて以来、またたく間に欧米の劇場が先を争って上演するようになった、噂の成功作――。
その実演に接して感じたことを書いてみたい。

オペラを観ている間、私の脳裏には、2016年の夏に10日間プロヴァンスで過ごし、美しい村から村へと訪ねてまわった日々が、鮮やかに蘇っていた。
サド侯爵の城、予言者ノストラダムスの生家、文豪カミュの家、画家ゴッホの精神病院…。現代美術家たちのアトリエのひしめく赤い土の村、どこまでも続く葡萄畑とハーブの香り、白い砂ぼこり、古い修道院や教会――。
そこで毎日のように吸い込んでいたあの空気が、ジョージ・ベンジャミン(1960年ロンドン生まれ)の音楽には、たっぷりと含まれていた。

べンジャミンは、20世紀フランスの大作曲家オリヴィエ・メシアンの最後の愛弟子のひとりであるが、その緻密な響きは、内省的で、陰影に富んでいる。
日常生活では決して味わえない、憂鬱と不吉さをふくんだ、音楽の静寂。
それは、何と味わい深かったことだろう。

グラスハーモニカ、マンドリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、タイプライターなどを含むオーケストラの独特な音色は、古さと新しさが混然一体となって溶解しており、現代から遠い過去へと旅するための手段として、これ以上ないくらいの魔術的効果を放っていた。

このオペラがやろうとしていたことは、現代社会のコンクリートの薄皮をひっぺがし、インターネットも、ジェット旅客機も、ショッピングモールも、何もかも取り去って、800年前の中世プロヴァンスへと、観客を巧妙に連れ去っていくことである。 そこには、残虐さと愛と、狂気と美食と、芸術とメディアについての、深遠な省察が示されていた。

オペラの題「リトゥン・オン・スキン」を直訳すると、肌の上に書かれた、ということになるが、スキンは皮をも意味するので、活版印刷術の発明以前の、羊皮紙に手書きで文字を彩色しながら絵とともに記録していた時代の物語、ということにもなる。

ここで観客は、想像力を求められる。
現代のインターネット社会では、誰もがキーボードを打ち、スマホの画面に指で触れるだけで、ひととおりの文章が書け、SNSなどを通して、パブリックな場にいくらでも発表することができる。
言葉はますます無思慮に気安く扱われ、文字の真実味は消え失せ、衰弱し、価値は下落し、空気のように軽く浮遊している時代である。

しかし、そうなったのはごく最近のことであり、もっと昔は、文字を書くこと、本に記録すること、それを残すことには、途方もない慎重さを求められる、重みのある行為だった。

言葉がそうだった時代のことを、想像してみなさい、とこのオペラは言っているのだ。

13世紀のプロヴァンスの領主であるプロテクター(アンドルー・シュレーダー、威圧的なキャラクター)は、自らの人生の記録を、理想化された形で彩色写本に仕上げようと考えた。裕福で慈悲深く、良きおこないを遂げた自分自身を中心に、従順で貞淑な妻、楽園のような家族を描かせるのだ。
いまからは想像もつかないことだが、美しく立派な一冊の本を作って後世に残すことは、羊皮紙の時代には、生涯をかけるに値する大事業であり、とてつもない野心的行為であった。

そこでプロテクターは、一人の才能ある少年(藤木大地、カウンターテナー=男の裏声アルトの響きは、このオペラ全体に特別なオーラをもたらした)を雇う。写本彩色師としての技術を認めたのだ。 だが、妻アニエス(スザンヌ・エルマーク、高い技術と情熱、女の肉感も備えていて華があった)は、少年が絵に描いた女は、本物の女ではないと言って少年を挑発し、誘惑する。それは、専制的・暴力的で女を所有物としか見ていない夫への復讐へとつながっていく。

少年は、領主の依頼どおりの写本を結局仕上げない。嘘で塗り固めたような裕福な家族の理想を描くのではなく、アニエスとの官能的な性愛について、細部まで記してしまうのだ。

少年が象徴するのは、芸術家と言葉の書き手の役割そのものである。
スポンサー、依頼主の注文に応じて仕事をするという意味では下請け的存在であるが、それ以上に優先されることがある――。
作品の中では真実を伝えるという、独立性である。

領主プロテクターは、真相を知って怒り狂い、少年を殺し、その心臓をえぐり出し、料理して妻アニエスに食べさせる。
「どうだ、美味いか?もっと食べてみろ」
「甘くて、しょっぱい味がする。でも美味しいわ、とっても」
食べ終わったところで、彼は妻に告げる。それは愛人である少年の心臓なのだと。

私は、この中世プロヴァンスに由来するカニバリズム(人肉食)の物語に接して、不思議なくらい嫌悪感を感じなかった。
残酷さと、美食と、愛と、死は、すべて隣り合わせのものだと、オペラが示していた。

美味しいということは、どういうことなのだろうか。
恋人(愛する人、たとえば小さな子どもでもいい)の身体から発する匂いを、好きだと思うのは当然のことである。
それを口に入れたい、その匂いを胸の奥深く吸い込みたい、できることなら、食べてしまいたいという衝動を感じるのも、自然なことである。 愛の物語の終局において、食べるという本質的行為を持ってきたこのオペラの着想は素晴らしい。

禁忌の領域にまで侵入して、人間の真実について省察させてくれる物語を作ること。それは時代を問わず、劇場の使命ともいえる。

「リトゥン・オン・スキン」がすぐれたオペラだと思ったもうひとつのポイントは、物語が単純な過去の出来事として、一本の線で進められていないことだ。

一人の歌手のなかに、「彼はこうであった」と状況説明する客観的な叙述と、「私はこうなのだ」と役柄になりきったセリフとが、共存している。
オペラのはじめには、天使が出てきて、それが少年の役となる。オペラの終わりには天使に戻る。

物語が、中世の領主たちの次元と、天使たちの次元と、それを見ている現代の観客の次元と、音楽とあいまって、重層的な形をなしているのだ。それは、映画やドラマの世界とは全く異なる、オペラならではのユニークな物語の進め方である。

オペラでしかありえない形で、中世プロヴァンスに根を持ちながら、残虐さと官能と、愛と美食についての普遍的物語を創り出すこと。
その野心的な試みが「リトゥン・オン・スキン」であった。

8月28日のカーテンコールより 写真提供:サントリーホール

指揮者・大野和士がこの作品を取り上げ、プロデューサーとしてのリーダーシップをもって上演にこぎつけ、いまヨーロッパで最先端のオペラを、情熱的で力量ある歌手たちとオーケストラの演奏とともに紹介してくれたのは、本当に素晴らしいことだ。 公演としての事業性を考えたらとても見合わないだろうこうした上演も、サントリーホール・サマーフェスティバルならではの勇敢な実行力あってのことである。

舞台総合美術の針生康(はりう しずか)のステージングは、プロヴァンスの風景の色彩感、中世的な雰囲気を生かした幻想的なもの。現代社会から中世にいざなう過程も効果的に描き、このオペラの土地との結びつきを意識していたという点で、強く共感できた。 背景の映像、その手前のダンサーたちと演者、オーケストラの前の歌手たち。この3つの層で、完全にシンクロせずに、少しずつずれを持ちながら同時に進んでいく舞台も、オペラのコンセプトに添ったものだった。

サントリーホールは、これまで「ホール・オペラ」という形で、音楽専用ホールとしての響きを生かしながらも、通常の演奏会形式とはひと味違う、独自のオペラ上演の試みをずっと続けてきた。今回の針生康の仕事は、その中でも映像のもたらす幻想性がオペラの本質とつながっていたという意味で、最良のもののひとつであった。

いまクラシック音楽の世界では、古楽演奏家たちのみならず、現代作曲家たちの仕事においても、「中世への熱い視線」が、ひとつの面白いムーヴメントとなっている。「リトゥン・オン・スキン」は、そうした動きを象徴するもっとも重要な作品のひとつであり、今後も世界中で上演が重ねられていくことだろう。

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