May 27, 2019 regular
#08

舞踊を通してバッハを聴く

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林田 直樹

音楽ジャーナリスト・評論家。1963年埼玉県生まれ。オペラ、バレエ、古楽、現代音楽など、クラシックを軸に幅広い分野で著述。著書「ルネ・マルタン プロデュースの極意」(アルテスパブリッシング)他。インターネットラジオ「OTTAVA」「カフェフィガロ」に出演。月刊「サライ」(小学館)他に連載。「WebマガジンONTOMO」(音楽之友社)エディトリアル・アドバイザー。

今回は公演レビューです。ベルギーのダンス・カンパニー「ローザス」が来日し、ジャン=ギアン・ケラスの生演奏とのコラボレーションによる「我ら人生のただ中にあって/バッハ:無伴奏チェロ組曲」が上演されました(アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル振付、東京芸術劇場:5月18、19日)。音楽に新しい視点をもたらした舞台に接して考えたことを――。

ヨハン・セバスティアン・バッハの無伴奏チェロ組曲といえば、聖典のような作品である。
しかもジャン=ギアン・ケラスといえば現代最高のチェリストのひとりであり、その生演奏をバックに踊るということが、どれほどダンサーにとってプレッシャーになるか、想像を絶するものがある。

振付家アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルは、現代のダンス界において、これまで音楽に対して、最も積極的かつダイナミックに関わってきたひとりである。その彼女が、バッハをどう舞踊の視点から解釈するのかが、楽しみだった。

この組曲は、全部で6曲あるが、その楽章は、アルマンド、クーラント、サラバンド、ガヴォット、ジーグなど、すべて舞曲で構成されている。これらは、宮廷舞踊のための実用音楽ではなく“舞踊の抽象化”という意味で、洗練された作品である。

ダンサーと一緒にチェロを持って登場したケラスは、客席に背を向けて、第1番の有名なプレリュードから弾き始めた。

客席に背を向けて? その意味はなんだろう。
それにしてもチェロがよく響く。PAを使っているのかと思うほど、後ろ向きでも問題なく朗々と響く。しかも自然に。
ケラスのチェロには、自己陶酔や誇張が一切ない。二枚目を気取らない。
音程が正しいというより、音程が美しい。
表現が清潔で、淡々としている。とりわけ弱音が人の声のように深い。
こうした演奏を聴いていると、耳が洗われるようだ。

結局、ケラスは1番から6番まで休憩なしに全部を通して暗譜で、端正に乱れなく弾いたが、いくつかの曲を大胆に割愛し、3番や4番では、ピタリと曲の途中で演奏を止めた。
その意外感は、断崖のようであった。
興味深かったのは、それでもダンサーたちは平然と踊りを続けていたこと。彼らの心の耳には、音が止んでいても、バッハが鳴り続けているかのように。
その瞬間、観客は、音のないバッハを聴いていたと言ってもいい――不思議な時間だった。

ケラスが弾くときの向きは、第1番の後ろ向きから始まって、横向きだったり、最後は正面を向いたり、曲ごとに舞台上の位置も含めてさまざまに変えていった。
それはあたかも、バッハの音楽が、観客に提供されるためだけに存在しているのではなく、自律性を持っているということを意味していた。

第1番から第6番まで、演奏開始の際には、舞台の背景に作品番号(BWV)の1007から1012までの数字が静かに浮かび上がる。そして、振付家のケースマイケル自身が、舞台の上手に進み出て、第1番から第6番までの数字を指で示す。
そのやり方が、暗示と謎に富んでいて、素晴らしかった。

振付家アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル(中央前)は、自らダンサーの一人として舞台に現れ、強い存在感を示す。 ダンサーたちのしぐさの一つ一つに、ためらいと誇らしさ、苦悩と躍動、緊張と弛緩のありのままが、謎めきながら、偽りなく示されている。Rosas 「我ら人生のただ中にあって/バッハ無伴奏チェロ組曲」photo:Futoshi Osako

たとえば、第5番。
ためらうように、憂いを込めて、ゆっくりと、片手をやや丸くしながら持ち上げる。そしておびえたように病的に引っ込める。
次に片手を持ち上げるときは、おぼろげに指を開いているが、また下ろす。
もう一回、片手を持ち上げるときには、はっきりと強く、指を思い切り開いている。
5だ! バッハの無伴奏チェロ組曲第5番が、これから始まるのだ。
そう、誇らしげに宣言するように、5の数字を観客席に向かって高々と示す。

このしぐさに、ケースマイケルがいかに第5番を大切に思っているか、全6曲のなかでこの曲こそがピークであるかが、にじみ出ていた。
それどころか、私はこう考えた。
この第5番は、わたしたち人類が生み出した、この世でもっとも輝かしい偉大な、宇宙に誇れるような音楽として、胸を張れるものなのだ。
たった片手の動きと表情で、ケースマイケルはこれほどのメッセージを込めているようだった。

いくつかのシーンが思い浮かぶ。
照明がどんどん落ちていく。ダンサーの姿は暗さに溶けていくが、完全な闇ではない。
チェリストだけが残る。ひとすじの光のなかで、静かな祈りのようにサラバンドが響く。
死に絶えたように横たわった者たち。そこにバッハが響いている。
やがて彼らは静かに起き上がる。死者の復活だろうか。それとも眠りからの目覚め?
ガヴォットに合わせて、行進するように歩く。同じ道を通って、また後退する。
5人のダンサーたちが踊る前に、床にテープを貼って図形を描いている。数学的な美がバッハの音楽の深層にあり、それはダンスのステップにも通じることを示すかのように。

ローザスのダンサーたちの動きは、クラシック・バレエの統率された非日常的な美ではなく、もっと日常の動きに近い。
衣装もそうだ。動きやすい、まるで部屋着のようなゆるさ。
それは、バッハの音楽に対置されるものが、「どこにでもいる、私たち一個人」であることを意味していた。
彼らの動きは、決して規格化されたり均一化されていないが、ずれながら似通っており、ゆるく関連付けられている。一糸乱れぬ完璧さではなく、深層に流れているものの確かさがある。
そう、それは私たちなのだ。

今回のコラボレーションから伝わってきたものは、バッハの音楽は確かに全宇宙に誇れるほど偉大ではあるけれど、それは決して縁遠いものではなく、普段着の日常の私たちと密接につながっている、ということではなかったろうか。(5月19日所見)

バッハの無伴奏チェロ組曲を1番から6番まで、チェリストのジャン=ギアン・ケラス(左奥)は曲ごとに 位置と向きを変えて演奏する。ダンサーの動きは、「歩く」などの日常性の延長にあり、類似はしていても、完全な均質性をとらない。ありのままの人間らしさを伝えようとしているかのようだ。Rosas 「我ら人生のただ中にあって/バッハ無伴奏チェロ組曲」photo:Futoshi Osako

※参考動画
「我ら人生のただ中にあって/バッハ:無伴奏チェロ組曲」より第2番プレリュード

https://www.youtube.com/watch?v=RjI3mQxFYqk

※推薦ディスク
J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲(全6曲) ジャン=ギアン・ケラス(チェロ)

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