Oct 27, 2017

インタビュー

最強の新人作家・吉本ばななとの出会い 『哀しい予感』誕生秘話

ベストセラー小説、古典文学、ビジネス書、学術書――。どの本にも、本を形にして世に送り出す“仕掛け人”が必ずいる。時には、著者を支えるパートナーであり、時には、デザインや宣伝、販売戦略を練るプロデューサー、そして本と読者をつなげる橋渡し役でもある「編集者」という仕事。その多岐に渡る仕事とは裏腹に、普段は“著者の裏方”としてあまり表舞台には現れない編集者の方々に、あの「名作」はどのように生まれたのか、その舞台裏を聞くインタビュー連載がはじまります。

 

伝説の編集者に聞く「あの名作」はいかにして生まれたか
Vol.1 幻冬舎・石原正康氏【前編】

 

第1回目は、これまで吉本ばなな、五木寛之、村上龍、山田詠美ら日本文学界を代表する作家の名作を数多く生み出してきた編集者の石原正康さん。名編集者・見城徹さんに付いて1993年に角川書店を退社、新しい出版社「幻冬舎」を設立した時の創立メンバーで、現在は幻冬舎の専務取締役もつとめる石原さんに、公私ともに付き合いがあり、編集者の原点になった吉本ばなな『哀しい予感』の舞台裏、そして創立当時の幻冬舎の危険な賭け、さらに編集者としての極意などじっくりと話を聞いていきます。

 

 

──石原さんがこれまで担当された本のあとがきを見ると、必ずと言っていいほど、著者が石原さんへ心からの謝辞を記しています。石原さんがベストセラーを数多く生み出した秘訣のひとつには、作り手側の気持ちを理解して寄り添うことができるのではないかと想像しているのですが、編集者になる前は作家を志していたそうですね。

高校時代にフラれた女の人が小説好きだったので、作家になってその人を見返してやろうと思って(笑)小説を読み、かつ書き始めたのがきっかけです。学生時代はずっと小説を書いていて、『文學界』や『すばる』『群像』といった文芸誌に応募していました。でも箸にも棒にもかからなくて、大学3年のとき、「もう一回書いて駄目だったら、あきらめよう」と思って、角川書店の『野性時代』という雑誌の新人賞(野性時代新人文学賞)に応募しました。というのも、その年(1983年)に選考委員が、中上健次さん、村上龍さん、宮本輝さん、三田誠広さん、高橋三千綱さんという方々に一新されたんです。中上さんは亡くなりましたが、今でこそ皆さんベテランですけど、当時はまだ30代の気鋭の作家たちでしたから雑誌の募集要項を見て「ここだ!」と思って応募しました。

──錚々たる顔ぶれですね。石原さんの小説も前衛的なものだったのでしょうか。

読んだ人の刺激になるものを書きたかった。あの頃は村上龍さんの『コインロッカー・ベイビーズ』を読んで衝撃を受けていて、当時の僕にとっての“村上龍”は、ミック・ジャガーと同列のスターでした。それで『野性時代』に原稿を送って、8月過ぎあたりに、今の幻冬舎の社長である見城徹から電話かかってきたんです。「『野性時代』の見城です。一度会おう」ということで、九段のグランドパレスのコーヒーハウスで会ったら「君なら新人賞絶対にとれるし、芥川賞の候補にもなるよ」と言われて。すっかり舞い上がってしまって、ゼミの先生に「もうゼミに出る時間もなくなるんでやめます」なんて話してしまって(笑)。でも結果は落選でした。その年は草間彌生さんが受賞(受賞作『クリストファー男娼窟』)しました。

──そこで作家への道は断念されたのですか。

いや、しばらく書き続けました。見城からも「翌年も作品を持ってきたら候補にするから」と言われたので、書いて、一作預けてはいたんですけど、売れるものへの嗅覚が鋭いから、僕のは一向に読んでくれなくて(笑)。そうこうしているうちに大学も5年目になって就職先も決まらず焦ってきて「どこか働き口はないでしょうか? 編集者やってみたいです!」と見城に頼んでみたら、「角川書店にアルバイトに来る?」と言われて、最初は書籍の編集部でバイトしました。原稿のコピーを取ったり、イラストレーターの家に絵を受け取りに行ったりしていました。当時は片岡義男さんが初版15万部、赤川次郎さん20万部といった部数を角川は続々発行していた時代です。その後に見城が『月刊カドカワ』に移る時に頼み込んで、一緒に連れていってもらって編集者になりました。そのときに見城から「原稿を貰う立場なんだから、原稿は書いてはいけない」と言われて、小説を書くのはやめたんです。でも、小説が生まれる生の現場に立っていることが実感できて、たちまち面白くなってきた。“小説はどうやって生まれてくるのだろうか”ということには興味があったので。

──その頃から見城さんは石原さんを既に編集者として買っていらしたんですね。

優秀な編集者多いですけど。でも見城は天才なんだと思います。間違いなく歴史に残る編集者です。僕は見城が32歳の時から知っていて、もう66歳ですけど、いつも自分のことをとことん追い込んでいる。僕が会った30年以上前と同じ熱量で新しい人々にも向かっていく。多分、見城と出逢った人って、その直後から、死ぬまで、1日に1回は見城のことを思い出すんじゃないかっていうくらい、その存在が浸透する。あと、見城についていけばわくわくすることが待っているような気がする。だから、僕も「この人に付いていこう」って思ったんです。

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