Mar 30, 2018

インタビュー

青木愛、家族の深い愛情や支えがあったから出場できたオリンピック

元シンクロ日本代表、青木愛。現在はスポーツコメンテーターやタレントとして活躍する彼女に、23歳という若さで引退を決めた想いや、引退後のセカンドキャリアについてロング・インタビューで迫った『いつだって、夢とシンクロする生き方』が、電子書籍として発売になった。本の中から特別に一部を抜粋してご紹介する。

 

愛情がない相手には怒れない

 

──井村先生の指導から離れて10年ほどになるかと思いますが、ご自身の中に井村イズムが根付いていると感じることはありますか?

コーチとして子供たちに指導している時には、自分でも“井村イズムやな”と思います。具体的には言い表しにくいけど、怒り方は特に(笑)。選手は基本プールの中にいて、コーチはプールサイドにいるから、声を張らないと聞こえないんですよ。プールって声が反響するし。だから余計に怒っているように見えるのかもしれないですけど。でも私が教え子に怒る時は、その選手のことがかわいいからなんです。選手に上手くなって欲しいから怒る。その気持ちは、自分が指導する立場を経験してみて理解出来ました。

──自分が怒られていたのも、愛情をかけてもらえていたからだと。

だって怒ることって、めっちゃくちゃ体力が必要なんです。だから、井村先生も、ほかのコーチも、愛情を持って指導してくれていたからこそ、あそこまで真剣に向き合って怒ってくれてたんだな、と今では素直に思えます。

──青木さん自身、選手を引退されてからコーチをされていた時期もありますが、自分が指導する立場になって改めて気づいたことは?

指導していた選手の中に、昔の自分にとても似ている子がいたんです。その選手を見ていると、現役の時にもう少しこういう風にしていたら良かったのかな、と感じることもあって。私が逆に選手から学ぶことは多いです。過去には戻れないけれど、自分が経験して来たことや、乗り越えて来たことを、経験を元に語ってあげることは出来るので。

──自分がもらったものを、後輩に受け継ぐ形で返していくような感覚?

はい。100%出来ていたかはわからないですけど、恩返しが出来れば良いなと思いながら指導をしていました。今はコーチ業をしていませんが、その子とは連絡を取り続けていて、何かあれば相談をしてくれます。最近、井村シンクロクラブへ移籍したそうで、まるで妹かのような感覚で見守っています。

──実際には弟がいるそうですが、家庭ではいかがでしたか?

母は、教育熱心だったのでたくさん怒られましたし、すごく怖かった。でも、私を一番応援してくれたのは母なんです。シンクロに対する思いは、私と母は同じくらい強かった。だからこそぶつかりましたし、親孝行する前に他界してしまいましたけど。母の病気が発覚したのが、私が代表に入った次の年(2006 年)。北京オリンピックの後に亡くなったので、私の代表入りからオリンピックまでの経歴と、母の病歴はほぼ一緒です。

──2008 年に北京オリンピック日本代表として出場されました。夢が叶った瞬間ですね。

そうですね。生意気にも私がオリンピックへ連れて行くから、と母に語っていたので有言実行が出来て良かったなと思いました。母のためでもあったし、自分の夢のためでもあったので。

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