Nov 07, 2017

コラム

『ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン』の頃から変わらないリスナーとの関係

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 ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポンは、1989年~1995年に渡って放送されていた。ぼくが作家だった。もちろん二人は売れっ子だから、テレビにもたくさん出ていた。そして、彼らに声をかけてくるラジオのリスナーについて、こんな風に言っていたのだ。
① 「テレビ見てます」というファンは大きな声で言うが、「ラジオ聞いてます」「リスナーです」というファンは、近づいて小さな声でそっと言う。
② それは凄く嬉しい。
③ けれど、凄く照れくさい。恥ずかしい。
④ なので、なぜか「あ、そう…。ありがとな」なんて、素っ気ない反応をしてしまう。

 この①の「リスナー」を「リトルトゥ—ス」に変えれば、①~④のすべてが、現在のオードリーの場合と同じなのだ。時代は移れど、ラジオのパーソナリティーとリスナーの関係というのは変わらない。これはなぜか?

 先日たまたま、オードリーのオールナイトニッポンに、柳原加奈子さんがゲストにやってきた。もちろんトークはとても盛り上がったのだが、その終盤に、彼女がこう言ったのだ。
「生放送の2時間って、ホントに人間性の隠しようがないですね」
 録音モノではないので、生放送はミスした場合もそのまま放送されてしまう。しかも、10分や30分ならまだしも、2時間という長丁場だと、自分をカッコよく、あるいは可愛く演じきることができない。
 それに、声だけというのは、ルックスやファッションで誤魔化せない。黙って微笑んでいるわけにもいかず、常に何かを喋り続けなくてはいけない。だが逆に、顔が見えないことで、ふだんは照れくさいホンネを語りやすくもなる。
 そんなことを毎週やっていれば、自分のプライベートな出来事や、考え、感じ方も話す。こうなるともうタレントではなく、生身の人間としての個性が表に出てしまうからだ。

 だから…という意味で、彼女は続けた。
「聞いてる方は、もの凄く大好きになるか、大嫌いになるかですね」
 不思議なもので、会ったことがなくても、ずっと聞いていればその人のことがわかる。極端な場合、顔を知らなくても、わかってしまうのだ。その上で、好きになったり嫌いになったりは、実生活でもあることだから、当然だ。
 そして、彼女は言った。
「ラジオって、素晴らしいツールですね」

 これがつまり、ラジオのリスナーは「聞いてますよ」と小さな声でそっと言うという行為につながり、言われたパーソナリティーは「凄く嬉しいが、照れくさい。恥ずかしい」ということになるのだろう。
 オードリーの場合、それが「リトルトゥ—スです」なのだ。

 とはいえぼくは、番組スタッフではあるが、パーソナリティーではない。自分が喋っているわけじゃないから、取材にあたって「実は、リトルトゥースなんです」と言われても、嬉しいだけで、別に恥ずかしくはない…のであった。

 あ、待てよ…。
 ごくたまに、出版記念イベントや落語会の時、少数のファンの方に、
「死人にシナチク、読んでました」
 と言われることがある。
 再び、いまこれを読んでいる方のほとんどは「なんのこっちゃ?」だろう。ぼくが若い時「アニメージュ」に連載していた小説のタイトルのことだ。
 この場合も、ファンの方はきまって「小声でそっと」言い、言われたぼくは「凄く嬉しいが、照れくさい。恥ずかしい」…なのであった。

 

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藤井青銅

藤井青銅(ふじいせいどう)
23歳の時「第一回・星新一ショートショートコンテスト」入賞。これを機に作家・脚本家・放送作家となる。

書いたラジオドラマは数百本。腹話術師・いっこく堂の脚本・演出・プロデュースを行い、衝撃的デビューを飾る。最近は、落語家・柳家花緑に47都道府県のご当地新作落語を提供中。 著書「ラジオな日々」「ラジオにもほどがある」「誰もいそがない町」「笑う20世紀」「あなたに似た街」「【悲報】本能寺で何かあったらしい……光秀ブログ炎上中! 歴史Web2.0」…など多数。

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